老年と人生
萩原朔太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)堀口大学《ほりぐちだいがく》君
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)反転|悶々《もんもん》
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老いて生きるということは醜いことだ。自分は少年の時、二十七、八歳まで生きていて、三十歳になったら死のうと思った。だがいよいよ三十歳になったら、せめて四十歳までは生きたいと思った。それが既に四十歳を過ぎた今となっても、いまだ死なずにいる自分を見ると、我ながら浅ましい思いがすると、堀口大学《ほりぐちだいがく》君がその随筆集『季節と詩心』の中で書いているが、僕も全く同じことを考えながら、今日の日まで生き延びて来た。三十歳になった時に、僕はこれでもう青春の日が終った思い、取り返しのつかない人生を浪費したという悔恨から、泣いても泣ききれない断腸悲嘆の思いをしたが、それでもさすがに、自殺するほどの気は起らなかった。その時は四十歳まで生きていて、中年者と呼ばれるような年になったら、潔よく自決してしまおうと思った。それが既に四十歳を過ぎ、今では五十歳の坂を越えた老年になってるのである。五十歳なんて年は、昔は考えるだけでも恐ろしく、身の毛がよだつほど厭《いや》らしかった。そんな年寄りになるまで生きていて、人から老人扱いをされ、浅ましい醜態を曝《さら》して徘徊《はいかい》する位なら、今の中《うち》に早く死んだ方がどんなにましかも知れない。断じて自分は、そんな老醜を世に曝すまいと決心していた。ところがいよいよ五十歳になってみると、やはりまだ生に執着があり、容易に死ぬ気が起らないのは、我ながら浅ましく、卑怯《ひきょう》未練の至りだと思う。
しかしこうした考えを持ってるのは、おそらく僕や堀口君ばかりでなく、一般の芸術家に共通したことだと思う。「芸術家に年齢なし」という言葉は、芸術家が、精神上において永遠の青年であることを言ったのだが、精神上において、永遠の青年であることを欲するものは、同時にまた肉体上においても、永遠の青年であることを欲するところの人々である。肉体や容色の美を財産とする俳優や女優たちが、世の常のいかなる人にもまして、老いを悪夢のように恐れ厭《いと》うのは当然であるが、そんなことに関係のない文学者や詩人たちも、老いを恐れ厭うことの心理においては、決して彼らの俳優たちと変りがない。故芥川龍之介の自殺については、色々な動機が臆測《おくそく》されているけれども、或る確かな一説によれば、あの美的観念の極度に強い小説家は、常に自分の容貌《ようぼう》のことばかり気にして、老醜を曝すのを厭がっていたということだから、あるいはおそらくそうしたことが、有力な動機になっていたかも知れないのである。芸術家の心理を理解しない、世間の一般人の眼から見たら、文学者がこんな動機で自殺するなんていうことは、滑稽《こっけい》に類する馬鹿気たことに思われるかも知れないが、僕らの同じ仲間には、そうした気持ちの痛々しさが、同情によって充分によく解るのである。ギリシアの神話にある美少年ナルチスは、自分の青春の姿を鏡に映して、惚々《ほれぼれ》と眺め暮していたということであるが、芸術家という人種は、原則として皆一種の精神的ナルチスムスである。彼らは決して、世の常の洒落者《しゃれもの》やおめかしやでなく、むしろ概してその反対であるけれども、その心の中の鏡に映して、常にイメージしている自分の姿は、永遠の美少年でありたいのである。(だから彼らは、故意にかえって現実の鏡を見ないようにし、常に無精髭《ぶしょうひげ》を生《は》やして汚《きた》なくしている。)
だが老いということも、実際にはそれほど悲しいものではない。むしろ若い時よりは、或る意味で遥《はる》かに楽しいものだということを、僕はこの頃経験によって初めて知った。僕の過去を顧みても、若い時の記憶の中に、真に楽しかったと思ったことは殆んどない。学生時代には不断の試験地獄に苦しめられ、慢性的の神経衰弱にかかっていたし、親父《おやじ》には絶えず怒《おこ》られて叱責《しっせき》され、親戚《しんせき》の年上者からは監督され、教師には鞭撻《べんたつ》され、精神的にも行動的にも、自由というものが全く許されてなかった。何よりも苦しいことは、性慾ばかりが旺盛《おうせい》になって、明けても暮れても、セクスの観念以外に何物も考えられないほど、烈《はげ》しい情火に反転|悶々《もんもん》することだった。しかもそうした青年時代の情慾は、どこにもはけ口を見出すことができなかった。遊女や売春婦等のいる所へは、絶対に行くことを禁じられていたし、第一親がかりの身では、そんな遊興費の銭を持つことができなかった。その上僕の時代の学生や若者は、擬似恋愛をするような女友達もなく、良家の娘と口を利《き》くようなチャンスは殆んどなかった。そんなはけ口のない情慾を紛らすために、僕らは牛肉屋へ行って酒をあおり、肉を手掴《てづか》みにして壁に投げつけたり、デタラメの詩吟を唄《うた》って、往来を大声で怒鳴り歩いたりした。しかもその頭脳の中には、詰めきれないほど残ってる試験の課題が、無制限の勉強を強《し》いているのである。そうした青年時代の生活は実にただ「陰惨《いんさん》」という一語によって尽される。「青春の歓楽」などということは、僕らはただ文字上の成句として、一種のイメージとしてしか知らなかった。
初めて僕が、多少人生というものの楽しさを知ったのは、中年期の四十歳になった頃からであった。その頃になってから、漸《ようや》く僕は僅《わず》かなりにも、多少原稿料による収入が出来、親父の手許《てもと》を離れて、とにかく妻と東京に一戸を構え、独立の生活をすることができた。その時以来、僕は初めて「自由」ということの意味を知った。人が自由ということを知る最初の経験は、子供が親の手を離れ、年長者の監督や拘束から解放されて、独立の生活をした最初の日である。同時にまたその時以来、僕は物質の窮乏などというものが、精神の牢獄《ろうごく》から解放された自由の日には、殆んど何の苦にもならないものだということも、自分の生活経験によって味得《みとく》した。そして五十歳を越えた今となっては、かつて知らなかった人生の深遠な情趣を知り、したがってまたその情趣を味《あじわ》いながら、静かに生きることの愉楽を体験した。それは父の死によって遺産を受け、初めて多少物質上の余裕を得たことにも原因するが、より本質上の原因は、むしろ精神上での余裕を得たことに基因する。若い時の生活が苦しいのは、物質上の不自由や行為の束縛にあるのでなく、実にその精神上の余裕がないからであった。青年の考える人生というものは、常に主観の情念にのみ固執しているところの、極《きわ》めて偏狭なモノマニア的のものである。彼らは何事かを思い詰めると、狂人の如くその一念に凝り固まり、理想に淫《いん》して現実を忘却してしまうために、遂《つい》には身の破綻《はたん》を招き、狂気か自殺かの絶対死地に追い詰められる。そこで詩人が歌うように、若き日には物皆悲しく、生きることそれ自体が、既に耐えがたい苦悩なのである。然《しか》るに中年期に入って来ると、人は漸くこうした病症から解脱《げだつ》してくる。彼らは主観を捨てないまでも、自己と対立する世界を認め、人生の現実世相を、客観的に傍観することの余裕を得て来るので、彼自身の生きることに、段々味のある楽しみが加わって来る。その上どんな人間でも、四十歳五十歳の年になれば、おのずから相当の蓄財と社会的地位が出来て来るので、一層心に余裕ができ、ゆったりした気持ちで生を楽しむことができるのである。
僕も五十歳になってから、初めてそういう寛達の気持ちを経験した。何よりも気楽なことは、青年時代のように、性慾が強烈でなくなったことである。青年時代の僕は、それの焦熱地獄のベットの上で、終日反転悶々して苦しんだが、今ではもうそんな恐ろしい地獄もない。むしろ性慾を一つの生活気分として、客観的にエンジョイすることの興味を知った。昔の僕には、茶亭に芸者遊びをする中年者の気持ちが、どうしても不思議でわからなかった。しかし今では、女を呼んで酌《しゃく》をさしたり、無駄話をしたり、三味線を弾《ひ》かせたりしながら、そのいわゆる「座敷」の情調気分を味《あじわ》いつつ、静かに酒を飲んで楽しむ人々の心理が、漸くはっきり解って来た。つまりこうした中年者らは、享楽の対象を直接の性的慾求に置くのではなく、むしろその性的なものを基調として、一種の客観的な雰囲気《ふんいき》を構成する事で、気分的に充分エンジョイしているのである。灼《や》きつくような情慾に飢えていた青年時代に、こうした雰囲気的享楽の茶屋遊びが、無意味に思われたのは当然だった。おそらく青年時代の情慾は、戦場にある兵士らのそれと同じく、正に仏説の餓鬼地獄に類するだろう。汗で油ぎってる黒い顔に、いつも面皰《にきび》を吹き出してる中学生の群を見る時、僕は自分の過去を回想して、言いようもなく陰惨の思いがする。かりにメフィストフェレスが出現して、今一度青春を与えようと約束しても、僕はファウストのように小躍《こおど》りして、即座に跳《と》びつくか否かは疑問である。
しかし、苦悩がないということは、常にその一面において、快楽がないということと相殺《そうさい》する。老いて人生が楽しいということは、別の側から観察して、老年のやるせない寂しさを説明している。世の中年者らが、茶屋遊びの雰囲気を楽しむというのも、所詮《しょせん》して彼らが、喪失した青春の日の情熱と悦《よろこ》びを、寂しく紛らすための遊戯に過ぎない。老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、充分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から、情慾の強烈な快楽に飽満できないという寂しさである。だがそれにも増してなお悲しいのは、真の純潔な恋愛を、異性から求められないということである。八十歳になったゲーテが、十八歳の娘に求婚して断られた時、彼はファウストの老博士を想念し、天を仰いで悪魔の来降を泣き呼ばった。名|遂《と》げ功成った一代の英雄や成功者が、老後に幾人の妾《めかけ》を持っても、おそらくその心境には、常に充《み》ちない蕭条《しょうじょう》たるものがあるであろう。百万石の殿様から恋をされ、富貴を捨てて若い貧乏の職人に情立てした江戸の遊女は、常識的の意味で悲劇人であった。だがそれを悲しみ怒って、愛する女を斬《き》った中年の殿様は、もっと哲学的の意味で悲劇人であった。
神が人間のために、この世界を創《つく》ったという聖書の記事が、もし本当であるとすれば、人間は神に向って大いに不平を言う権利があると、アナトール・フランスが苦情を言ってる。彼の註文《ちゅうもん》することは、神が何故に人間を、昆虫のように生態させてくれなかったかと言うのである。昆虫の生態は、幼虫時代と、蛹虫《ようちゅう》時代と、蛾蝶《がちょう》時代の三期に分れる。幼虫時代は、醜い青虫の時代であり、成長のための準備として、食気《くいけ》一方に専念している。そして飽満の極に達した時、繭を作って蛹《さなぎ》となり、仮死の状態に入って昏睡《こんすい》する。だがその昏睡から醒《さ》めた時、彼は昔の青虫とは似もやらず、見ちがうばかりの美しい蝶と化して、花から花へ遊び歩き、春の麗《うら》らかな終日を、恋の戯れに狂い尽した末、歓楽の極に子孫を残して死ぬのである。人間がもしそうであったら、アナトール・フランスの言うように、たしかに理想的であったろう。青年時代に、我々は多くの修業と勉強をせねばならない。その時我々が青虫だったら、性慾の衝動に悩ませられることもなくひたすら成長のための準備として、知識や技術の習得に努めることができるのである。そして準備が完成した時、一先《ひとま》ず蛹となって昏睡し、再度新しく世に出た時には見ちがうばかりに美しい肉体と旺盛な性慾を持ったところの、水々しい青春の男に化して
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