て流行歌曲の作家が、機敏にこの大衆の向ふ所を捉へたのである。それは流行唄としての新しいエポツクメーキングであるか知れない。しかし本質的に観察して、音楽精神の時代的没落を語るものであり、併せて現代日本文化の、救ひがたき卑俗的低落化を実証するものである。かうした歌詞本位的流行歌曲の進む所は、結局遂に「アメリカ式掛合万才」の全盛時代になるであらう。即ちジヤツク・ウオーキイ等によつて映画で紹介されてゐるやうな、歌詞を本位として簡単な音楽を伴奏的につけ、専ら歌詞の滑稽味やエロチシズムやで、大衆を興がらすやうに出来てる「音楽入西洋万才」が、近い未来に於て日本に現れることを予感させる。「あなたと呼べば」を悦ぶ大衆は、音楽よりも歌詞を悦ぶ大衆であり、それの徹底する所は、アメリカ式万才音楽を要求するにちがひないのだ。そして流行歌曲も、此所に至れば音楽としての自滅である。

 町の音楽を聴きながら、僕は絶えず自分自身に怒つて居る。なぜなら僕自身が、さうした音楽に魅力を感じ、大衆と共にそれを唄ふことによつて、日々に低落する現実社会の堕落の中へ、自ら環境的に引き込まれて行くことを感ずるからだ。僕は耳をふさいで
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