た。中には旋律ばかりが耳に入つて、歌詞は何を歌つてゐるのか、まるで意味の解らないやうな者さへあつた。然るに最近の「忘れちや厭よ」や「あなたと呼べば」等は歌詞に強いアクセントをつけ、その言葉の方の面白味で、専ら聴者を興がらす様に工夫されてる。例へば「あなた」「何だい」という問答の対話。「忘れちやイヤーヨ」といふ、イヤーに於ける強いアクセント等、皆歌詞を主眼にして、音楽の旋律をこれに附加して居るのである。
かうした作曲は、流行小唄としてたしかに新しい創造であり、エポツクメーキングのものかも知れないのである。しかし僕の考へでは、逆にこれが音楽精神の衰退を示してゐると思ふ。なぜなら音楽が歌詞を本位とすればするほど、音楽としての散文化(リリシズムの喪失)を意味するからである。つまり言へば聴者は、それを旋律の美しさに於て聴かないで、歌詞の面白さに於て聴き、真の音楽的陶酔とはちがふところの、別の散文化の興味で聴くからである。現に「あなたと呼べば」の如き唄が流行するのは、大衆が既にその心のリリシズムを喪失して、音楽でさへも、散文的な興味で聴かうとするところの、現代社会の時代的傾向を実証してゐる。そし
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