流行歌曲について
萩原朔太郎

 現代の日本に於ける、唯一の民衆芸術は何かと聞かれたら、僕は即座に町の小唄と答へるだらう。現代の日本は、実に「詩」を失つてゐる時代である。そして此所に詩といふのは、魂の渇きに水をあたへ、生活の枯燥を救つてくれる文学芸術を言ふのである。然るに今の日本には、さうした芸術といふものが全くないのだ。文壇の文学である詩や小説は、民衆の現実生活から遊離して、単なるインテリのデレツタンチズムになつて居るし、政府の官営してゐる学校音楽といふものも、同じやうに民衆の生活感情と縁がないのだ。真に今日、日本の現実する社会相と接触し、民衆のリアルな喜怒哀楽を表現してゐる芸術は、蓄音機のレコード等によつて唄はれてる、町の流行唄以外にないのである。
 僕は町を歩く毎に、いつもこの町の音楽の前に聴き惚れて居る。そして酒に酔つた時は、いつも大衆と一所にそれを合唱したくなるのである。音楽といふものは、本来皆その精神に「合唱性」を持つてるものだ。なぜなら音楽は詩と同じく、普遍に通ずるカメラードへの呼びかけであるからである。町の音楽をきいて、僕がそれを大衆と一所に唄ひたくなるといふのは、つまりその音楽の中に、僕等の時代に生きてるところの、社会人一般の情操を代表してゐるものがあるからである。この点から言へば、僕等のインテリ階級者と一般社会大衆人との間に、何の生活的劃線があるわけではない。一般社会人の悲しみは、常にそれ自ら僕等の心に反映してゐる悲しみなのだ。しかも僕等のインテリ文学は、この現実の社会感情から遊離して居り、却つて無智の大衆芸術である町の小唄が、僕等の求めてる真のリリツクを正直によく歌つてくれるのである。僕等の時代の文学者が、文壇の詩に退屈して、町の小唄音楽に却つて心の渇きを充たして居るといふのは、現代日本文化の畸型的な発育を反証するところの、一つのイロニカルな現像にちがひない。

 町の流行唄を聞いてゐると、時代の変遷する推移が実によく解るのである。人心が少しでも明るくなり、景気が活気づいて来た時には、音楽の調子がすぐ明朗になつてくるし、その反対の場合には、音楽がまたすぐ憂鬱になつてくる。町の流行歌曲ほど、感度の鋭敏な時代のテレビジヨンはないのである。
 そこでこの十年来、僕はこのテレビジヨンの感度機を廻しながら、目に見えない社会人心の変動を触覚して来た。そして
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