一つの結論を得た。それはこの十年以来、日本の社会が日々に益々憂鬱になり、人心が絶望的に呻吟して、文化がその目的性と希望とを失ひ、年々歳々益々低落の度を深めて来て居るといふ事実である。例へば少し昔には、古賀政男の名曲「酒は涙か溜息か」や「幻の影をしたひて」等が流行した。これらの歌曲は、そのもつと前、欧洲大戦前後の好況時代に流行した、外国オペラの明朗な翻訳曲に比すれば、遥かに憂鬱で哀傷的のものであつたが、音楽として尚甚だ上品のものであり、その精神には健全で浪漫的な青春のリリシズムが情操して居た。然るにその後、勝太郎の「ハア小唄」になつてくると、もはや「酒は涙か」のロマネスクや青年性は失はれて、年増女の淫猥な情痴感や感傷性やが、大衆の卑俗趣味に迎合するやうになつて来た。「酒は涙か」から「ハア小唄」への流行的推移は、すくなくとも「恋愛的感傷」から「情痴的感傷」への文化的低落と、その卑俗的散文化を語つて居た。
この勝太郎節と同時に、並行して流行したものは所謂「股旅小唄」であつた。この股旅小唄の主旋律は、概して皆尺八的、浪花節的哀傷を帯びてるもので、日本人の民族的リリシズムとも言ふべき、旅への放浪情操をよく表現して居た。しかしこれもまた前時代の歌曲に比すれば、その品位のないことに於て、野趣的に卑俗化したことに於て、時代の文化的低落を語る一実証と見るべきだつた。
所でまた最近の流行歌曲は、例の「あなたと呼べば」や「忘れちや厭よ」である。この二つの歌曲は、その作曲の新味と歌詞の取り扱ひ方とに於て、日本の流行小唄に一の新しいエポツクを劃したものと言はれて居る。だかこれを聴く毎に、僕は日本文化の悲しい末路といふことを痛感する。此所に歌はれてる歌曲は、卑猥で陰惨なエロチシズム以外に何物もない。勝太郎の「ハア小唄」には、年増女的淫猥の情痴があつたが、しかしそこにはまだ純情のリリシズムと感傷性とが流れて居た。然るに「あなたと呼べば何だいと答へる」や「忘れちや厭よ」の歌謡には、そのメロヂイにもその歌詞にも、全然リリシズムといふものが無いのである。しかもまたそれで居て、ナンセンス音楽に特有するユーモラスの明朗性もない。これは非常に憂鬱で陰惨な、何か梅雨時のやうにジメジメした感じの唄である。大体から言つて、流行歌曲の種属は二つに別れる。即ちセンチメンタルのものと、ナンセンス的のものとである。然
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