されて居た。
 青年時代になつてからも、色々恐ろしい幻覚に悩まされた。特に強迫観念が烈しかつた。門を出る時、いつも左の足からでないと踏み出さなかつた。四ツ角を曲る時は、いつも三遍宛ぐるぐる廻つた。そんな馬鹿馬鹿しい詰らぬことが、僕には強迫的の絶対命令だつた。だが一番困つたのは、意識の反対衝動に駆られることだつた。例へば町へ行かうとして家を出る時、逆に森へ行けといふ強迫命令が起つて来る。するといつのまにか、僕の足はその命令を遵奉して、反対の森の方へ行つてるのである。最も苦しいのは、これが友人との交際に於て出る場合である。例へば僕は目前に居る一人の男を愛してゐる。僕の心の中では、固くその人物と握手をし、「私の愛する親友!」と言はうとして居る。然るにその瞬間、不意に例の反対衝動が起つて来る。そして逆に、「この馬鹿野郎!」と罵る言葉が、不意に口をついて出て来るのである。しかもこの衝動は、避けがたく押へることが出来ないのである。
 この不思議な厭な病気ほど、僕を苦しめたものはない。僕は二十八歳の時に、初めてドストイェフスキイの小説「白痴」をよんで吃驚した。といふのは、その小説の主人公である白痴の
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