とめて会はないやうにして来たのである。
僕の天性の我がまま気儘も、これにまた輪をかけて自分を洞窟の仙人にした。人と人との交際といふことは、所詮相互の自己抑制と、利害の妥協関係の上に成立する。ところで僕のやうな我がまま者には、自己を抑制することが出来ない上に、利害交換の妥協といふことが嫌ひなので、結局ひとりで孤独に居る外はないのである。ショーペンハウエルの哲学は、この点でよく僕等の心理を捉へ、孤独者の為に慰安の言葉を話してくれる。ショーペンハウエルの説によれば、詩人と、哲学者と、天才とは、孤独であるやうに宿命づけられて居るのであつて、且つそれ故にこそ、彼等が人間中での貴族であり、最高な種類に属するのださうである。
しかし孤独で居るといふことは、何と言つても寂しく頼りないことである。人間は元来社交動物に出来てるのだ。人は孤独で居れば居るほど、夜毎に宴会の夢を見るやうになり、日毎に群集の中を歩きたくなる。それ故に孤独者は、常に最も饒舌の著者である。そして尚ボードレエルの言ふやうに、常に群集の中を徘徊してゐる人間は、この世に於て、常に最も孤独な寂しい人間なのである。僕もまたそのやうに、都会の雑沓の中をうろついたり、反響もない読者を相手にして、用にも立たぬ独語などをしやべつて居る。
町へ行くときも、酒を飲むときも、女と遊ぶときも、僕は常にただ一人である。友人と一緒になる場合は、極く稀れに特別の例外でしかない。多くの人は、仲間と一緒の方を楽しむらしい。ただ僕だけが変人であり、一人の自由と気まま勝手を楽しむのである。だがそれだけまた友が恋しく、稀れに懐かしい友人と逢つた時など、恋人のやうに嬉しく離れがたい。「常に孤独で居る人間は、稀れに逢ふ友人との会合を、さながら宴会のやうに嬉しがる」とニイチェが言つてるのは真理である。つまりよく考へて見れば、僕も決して交際嫌ひといふわけではない。ただ多くの一般の人々は、僕の変人である性格を理解してくれないので、こちらで自分を仮装したり、警戒したり、絶えず神経を使つたりして、社交そのものが煩はしく、窮屈に感じられるからである。僕は好んで洞窟に棲んでるのではない。むしろ孤独を強ひられて居るのである。
かうした僕の性癖は、一つにはまた環境からも来て居るのである。医者といふ職業上から、父は患者以外の来客を煩さがつて居た。父の交際法は西洋式で、い
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