つも倶楽部でばかり人に会つて居た。そこで僕の家の家風全体が、一体に訪問客を悦ばなかつた。特に僕の所へ来る客は厭がられた。それはたいてい垢じみた着物をきて、頭を乱髪にした地方の文学青年だつた。堂々と玄関を構へてる医者の家へ、ルンペンか主義者のやうな風態をした男が出入するのを、父が世間態を気にして厭がつたのは無理もなかつた。そこで青年たちが来る毎に、僕は裏門をあけてそつと入れ、家人に気兼ねしながら話さねばならなかつた。それは僕にとつて非常に辛く、客と両方への気兼ねのために、神経をひどく疲らせる仕事だつた。僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむやうに、環境から躾けられてしまつたのである。
 かうした環境に育つた僕は、家で来客と話すよりも、こつちから先方へ訪ねて行き、出先で話すことを気楽にして居る。それに僕は神経質で、非常に早く疲れ易い。気心の合つた親友なら別であるが、さうでもない来客と話をすると、すぐに疲労が起つてきて、坐つて居るのさへ苦しくなる。しかもそれを色々に隠して、来客と話さねばならないのである。それがこつちから訪ねる場合は、何時でも随意に別れることが出来るのである。この「告別の権利」が、自分になくつて来客の手にあるといふことほど、客に対して僕を腹立たしくすることはない。
 一体に交際家の人間といふものは、しやべることそれ自身に興味をもつてる人間である。かうした種類の人間は、絶えず何かしらしやべつてないと寂しいのだ。反対に孤独癖の人間は、黙つて瞑想に耽ることを楽しみとする。西洋人と東洋人とを比較すると、概してみな我々東洋人は、非社交的な瞑想人種に出来上つてる。孤独癖といふことは、一般的には東洋人の気質であるかも知れないのだ。深山の中に唯一人で住んでる仙人なんていふものは、おそらく西洋人の知らない東洋の理念《イデア》であらう。とにかく僕は、無用のおしやべりをすることが嫌ひなので、成るべく人との交際を避け、独りで居る時間を多くして居る。いちばん困るのは、気心の解らない未知の人の訪問である。それも用件で来るのは好いのだけれども、地方の文学青年なんかで、ぼんやり訪ねて来られるのは最も困る。僕は一体話題のすくない人間であり、自己の狭い主観的興味に属すること以外、一切話することの出来ない質の人間だから、先方で話題を持ちかけて来ない以上は、幾時間でも黙つてゐる外はない。だ
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