。作者にとつて、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考へても疑問であつた。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解つた。私は天井に止まる蠅を、一時間も面白く眺めてゐた。床にさした山吹の花を、終日倦きずに眺めてゐた。実につまらない[#「つまらない」に傍点]こと、平凡無味なくだらない[#「くだらない」に傍点]ことが、すべて興味や詩情を誘惑する。あの一室に閉ぢこもつて、長い病床生活をしてゐた子規が、かうした平淡無味の歌を作つたことが、初めて私に了解された。世にもし「退屈の悦び」「退屈感からの詩」といふものがありとすれば、それは正岡子規の和歌であらう。退屈もそれの境地に安住すれば快楽であり、却つて詩興の原因でさへあるといふことを、私は子規によつて考へさせられた。
 既に子規の歌が解つた私は、ついであの日本文学に於ける大なるスフインクス――自然主義の文学と文学論――を理解することも容易であつた。自然主義の文学論はできるだけ平凡無味の人生を、できるだけ無感激で書くことを主張した。
「平凡を平凡の筆致で書く」
「退屈を退屈の実感で書く」
 これが自然派文学の主張であつた。そこで彼等の作品ほど、文
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