にあるのだ。既に一切をあきらめる。故に焦燥もなく、煩悶もなく、義務感もなく、真に無為不善で居りながら、しかもまたその無為によつて退屈に悩まされることもない。即ち所謂「悠々自適」の境に達し、安心立命して暮すことができるのだ。
 病気が、この種の宗教の真意を教へた。私は病気中、すくなくとも悠々自適に近い心境を体験した。私は無為に居て無為を楽しみ、退屈に居て退屈の満足を初めて知つた。それから、あらゆる一般の病人が、だれもこの心境では同じでないかと考へた。そこでふと正岡子規のことが考へられた。あの半生を病床に暮した子規が、どんな詩を作つたかといふことが、興味深く考へ出された。私は古い記憶から、彼の代表的な和歌を思ひ出した。それらの和歌は、床の間の藤の花が、畳に二寸足らずで下つてゐるとか、枕元にある茶碗が、底に少し茶を残してゐるとかいふ風の、思ひ切つて平凡退屈な日常茶飯事を、何等の感激もない平淡無味の語で歌つたものであつた。
 かうした子規の歌――それは今日でもアララギ派歌人によつて系統されてる。――は、長い間私にとつての謎であつた。何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか
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