病床生活からの一発見
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)あきらめ[#「あきらめ」に傍点]
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 病気といふものは、私にとつて休息のやうに思はれる。健康の時は、絶えず何かしら心に鞭うたれる衝動を感じてゐる。不断に苛々して、何か為ようと思ひ、しかも何一つ出来ない腑甲斐なさを感じてゐる。毎日毎日、私は為すべき無限の負債を背負つてる。何事かを、人生に仕事しなければならないのだ。私が廃人であり、穀つぶしでないならば、私は何等か有意義の仕事をせねばならない。所が私といふ人間は、考へれば考へるほど、何一つ才能のない、生活能力の欠乏した人間なのだ。文学の才能すらも、私には殆んど怪しいのだ。
 私は駄目だ! この意識が痛切にくるほど、自分を陰鬱にすることはない。結局して、自分は一個の廃人にすぎないだらうといふことが、厭らしい必然感で、私の心を墓穴の底にひきずり込む。しかもそれが、殆んど或る時は毎日なのだ。私はこの苦痛をまぎらすために、どうしても酒を飲まずに居られないのだ。しかも酒を飲むことから、一層悲痛になり、絶望的になつてしまふ。私は近頃、或る女流詩人の詩集の会で、侮辱された一婦人のために腹を立て、悲しくなつて潸然と泣いてしまつた。何者にもあれ、人を侮辱することは我れを侮辱することになるのだから。
 所が病気になると、かうした生活焦燥が全くなくなり、かつて知らない静かな澄んだ気分になれる。なぜだらうか? 病気は一切を捨ててしまふからだ。私はこの二月以来、約二ヶ月の間も病気で寝床に臥通しだ。初めの間、さすがに色々な妄想に苦しめられた。だがしまひには、全く病床生活に慣れてしまひ、全く何事も考へなくなつてしまつた。病気の時は、人はただ肉体のことを考へる。健康が、少しでも早く回復し、好きな食物が食へ、自由な散歩が出来たらば好いと思ふ。病気の時ほど、人は寡欲になることはない。私に水とパンと新鮮な空気を与へよ。幸福は充分だとエピクロスが言つた。病気は、丁度さういふ寡欲さで、人をエピクロス的の快楽主義者にする。何の贅沢の欲望もない。普通の健康と自由さへあるならば、街路に日向ぼつこをしてゐる乞食さへも羨ましいのだ。
 何よりも好いことは、病気が一切をあきらめ[#「あきらめ」に傍点]させてくれることだ。病気の時には、一切のゾルレンが消えてしまふ。「お前は病気だ。肉体の非常危期に際してゐる。何よりも治療が第一。他は考へる必要がなく、また況やする必要がない。」と言ふ、特赦の休日があたへられてる。それの意識が、すべての義務感や焦燥感から、公に自己を解放してくれる。病気であるならば、人は仕事を休んで好いのだ。終日何も為ないでぶらぶらとし、太々しく臥てゐた所で、自分に対してやましくなく、却つて当然のことなのだ。無能であることも、廃人であることも、病気中ならば当然であり、少しも悲哀や恥辱にならない。
 健康の時、私は絶えず退屈してゐる。為すべき仕事を控へて、しかもそれに手がつかないから退屈するのだ。退屈といふものは、人が考へるやうに呑気なものぢやない。反対に絶えず腹立たしく、苛々とし、やけくそ[#「やけくそ」に傍点]の鬱陶しい気分のものだ。だから人の言ふやうに、仏蘭西革命は退屈から起つたので、之れがいちばん社会の安寧に危険なものだ。そこで為政者は、人民の退屈感をまぎらすために、絶えず新しい事業を起し、内閣を更迭し、文化をひろめ、或いは種々のスポーツを奨励し、娯楽場や遊郭や公共浴場を設計する。
 所が病気をしてから、この不断の退屈感が消えてしまつた。人は私に問うた。二ヶ月も病床にゐたら、どんなに退屈で困つたらうと。然るに私は反対だつた。病気中、私は少しも退屈を知らなかつた。天井にゐる一疋の蠅を見てゐるだけでも、または昼食の菜を想像してゐるだけでも、充分に一日をすごす興味があつた。健康の時、いつもあんなに自分を苦しめた退屈感が、病臥してから不思議にどこかへ行つてしまつた。この二ヶ月の間、私は毎日為すこともなく、朝から晩まで無為に横臥して居たにかかはらず、まるで退屈といふ感を知らずにしまつた。稀にそれが来ても、却つて心地よい昼寝の夢に睡眠をさそふばかりであつた。もし之れが、実の退屈といふものであるならば、退屈は願はしいものだと思つた。しかもこんな経験は、かつて健康の時に一度も無かつた。
 この病気の経験から、私は「無為自然」といふ哲学の意味を知つた。私はエピクロスを知り、老子を知り、そして尚且つストイツクの本来の意味さへ解つた。すべて此等の宗教(?)は、人生に安心立命の道を教へる。そしてこの安心立命に至る手段は、要するに欲望を捨て、義務感を去り、生活に対する一切の責任感をあきらめてしまふこと
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