既にして家に歸れば、父の病とみに重く、萬景悉く蕭條たり。

 乃木坂倶樂部  乃木坂倶樂部は麻布一聯隊の附近、坂を登る崖上にあり。我れ非情の妻と別れてより、二兒を家郷の母に托し、暫くこのアパートメントに寓す。連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白晝《ひる》はベットに寢ねて寒さに悲しみ、夜は遲く起きて徘徊す。稀れに訪ふ人あれども應へず、扉《どあ》に固く鍵を閉せり。我が知れる悲しき職業の女等、ひそかに我が孤窶を憫む如く、時に來りて部屋を掃除し、漸く衣類を整頓せり。一日辻潤來り、わが生活の荒蕪を見て唖然とせしが、忽ち顧みて大に笑ひ、共に酒を汲んで長嘆す。

 品川沖觀艦式  昭和四年一月、品川沖に觀艦式を見る。時薄暮に迫り、分列の式既に終りて、觀衆は皆散りたれども、灰色の悲しき軍艦等、尚錨をおろして海上にあり。彼等みな軍務を終りて、歸港の情に渇ける如し。我れ既に生活して、長く既に疲れたれども、軍務の歸すべき港を知らず。暗憺として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食はれたり。いかんぞ風景を見て傷心せざらん。鬱然として怒に耐へず、遠く沖に向て叫び、我が意志の烈しき渇きに苦しめり。

 珈琲店 醉月  醉月の如
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