ば狂気したのだ。私自身の宇宙が、意識のバランスを失って崩壊したのだ。
 私は自分が怖《こわ》くなった。或る恐ろしい最後の破滅が、すぐ近い所まで、自分に迫って来るのを強く感じた。戦慄が闇を走った。だが次の瞬間、私は意識を回復した。静かに心を落付《おちつけ》ながら、私は今一度目をひらいて、事実の真相を眺め返した。その時もはや、あの不可解な猫の姿は、私の視覚から消えてしまった。町には何の異常もなく、窓はがらん[#「がらん」に傍点]として口を開《あ》けていた。往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、疲れた埃っぽい人たちが、白昼の乾《かわ》いた街を歩いていた。あの蠱惑的《こわくてき》な不思議な町はどこかまるで消えてしまって、骨牌《カルタ》の裏を返したように、すっかり別の世界が現れていた。此所に現実している物は、普通の平凡な田舎町。しかも私のよく知っている、いつものU町の姿ではないか。そこにはいつもの理髪店が、客の来ない椅子《いす》を並べて、白昼の往来を眺めているし、さびれた町の左側には、売れない時計屋が欠伸《あくび》をして、いつものように戸を閉《し》めている。すべては私が知ってる通りの、いつもの通りに変化のない、田舎の単調な町である。
 意識が此所まではっきりした時、私は一切のことを了解した。愚かにも私は、また例の知覚の疾病「三半規管の喪失」にかかったのである。山で道を迷った時から、私はもはや方位の観念を失喪していた。私は反対の方へ降りたつもりで、逆にまたU町へ戻って来たのだ。しかもいつも下車する停車場とは、全くちがった方角から、町の中心へ迷い込んだ。そこで私はすべての印象を反対に、磁石のあべこべの地位で眺め、上下四方前後左右の逆転した、第四次元の別の宇宙(景色の裏側)を見たのであった。つまり通俗の常識で解説すれば、私はいわゆる「狐に化かされた」のであった。

     3

 私の物語は此所で終る。だが私の不思議な疑問は、此所から新しく始まって来る。支那の哲人|荘子《そうし》は、かつて夢に胡蝶《こちょう》となり、醒めて自ら怪しみ言った。夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるかと。この一つの古い謎は、千古にわたってだれも解けな
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