屍《しし》のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩《たか》まって行った。此所《ここ》に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない!
 町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音もなく、典雅な人々が歩いていた。どこかで遠く、胡弓《こきゅう》をこするような低い音が、悲しく連続して聴えていた。それは大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変らない町の様子を、どこかで一人が、不思議に怪しみながら見ているような、おそろしい不安を内容した予感であった。今、ちょっとしたはずみで一人が倒れる。そして構成された調和が破れ、町全体が混乱の中に陥入《おちい》ってしまう。
 私は悪夢の中で夢を意識し、目ざめようとして努力しながら、必死に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている人のように、おそろしい予感の中で焦燥した。空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度は、いよいよ刻々に嵩まって来た。建物は不安に歪《ゆが》んで、病気のように瘠《や》せ細って来た。所々に塔のような物が見え出して来た。屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚《あし》みたいに、へんに骨ばって畸形《きけい》に見えた。
「今だ!」
 と恐怖に胸を動悸《どうき》しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠《ねずみ》のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。
 瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人《なんぴと》にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭《ひげ》の生《は》えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
 戦慄《せんりつ》から、私は殆《ほと》んど息が止まり、正に昏倒《こんとう》するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見ているのだ。さもなけれ
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