て怒らせてしまつた。あの小心で、羞《はに》かみやで、いつもストイツクに感情を隠す男が、その時顔色を変へて烈《はげ》しく言つた。
「著作? 名声? そんなものが何になる!」
独逸《ドイツ》のある瘋癲《ふうてん》病院で、妹に看病されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂気の頭脳に記憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
あの傲岸《ごうがん》不遜《ふそん》のニイチエ。自ら称して「人類史以来の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁《し》みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為《ため》に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞《うつろ》な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戦で重傷を負つたネルソンが、軍医や部下の幕僚《ばくりよう》たちに囲まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「
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