がつて、瞑想者《めいそうしや》のやうな影法師をうつしてゐた。風景はひつそりとして、空には動かない雲が浮いてゐた。
無限に長く、空想にみちた坂道を登つて行つた。遂に登りつめた時に、眼界に一度に明るく、海のやうにひらけて見えた。いちめんの大平野で、芒《すすき》や尾花《おばな》の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた。そして平野の所所に、風雅な木造の西洋館が、何かの番小屋のやうに建つてゐた。
それは全く思ひがけない、異常な鮮新な風景だつた。私のどんな想像も、かつてこの坂の向うに、こんな海のやうな平野があるとは思はなかつた。一寸《ちょっと》の間、私はこの眺めの実在を疑つた。ふいに思ひがけなく、海上に浮んだ蜃気楼《しんきろう》のやうな気がしたからだ。
『おーい!』
理由もなく、私は大声をあげて呼んでみた。広茫とした平野の中で、反響がどこまで行くかを試《ため》さうとして。すると不意に、前の草むらが風に動いた。何物かの白い姿がそこにかくれてゐたのである。
すぐに私は、草の中で動くパラソルを見た。二人の若い娘が、秋の侘しい日ざしをあびて、石の上にむつまじく坐つてゐたのだ。
『娘たちは詩を思つてる。彼等の生活[#「生活」に傍点]をさまたげまい。なぜなら娘たちにとつては、詩が生活の一切だから。けれども僕にとつては! 僕は肯定さるべき所の、何物の観念でもない!』
さうして心が暗くなり、悲しげにそこを去らうとした。けれどもその時、背後をふりかへつた娘の顔が、一瞥《いちべつ》の瞬間にまで、ふしぎな電光写真のやうに印象された。なぜならその娘こそ、この頃私の夢によく現はれてくるやさしい娘――悲しい夢の中の恋人――物言はぬお嬢さん――にそつくりだから。いくたび、私は夢の中でその人と逢つてるだらう。いつも夜あけ方のさびしい野原で、或《あるい》は猫柳の枯れてる沼沢地方で、はかない、しづかな、物言はぬ媾曳《あいびき》をしてゐるのだ。
『お嬢さん!』
いつも私が、丁度夢の中の娘に叫ぶやうに、ふいに白日《はくじつ》の中に現はれたところの、現実の娘に呼びかけようとした。どうして、何故に、夢が現実にやつて来たのだらうか。ふしぎな、言ひやうもない予感が、未知の新しい世界にまで、私を幸福感でいつぱいにした。実はその新しい世界や幸福感やは、幾年も幾年も遠い昔に、私がすつかり忘れてしまつてゐたものであつた
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング