絶して、永遠に生きる実在から、それの鎖が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家郷とすべき住家《すみか》はないから。そこには拡がりもなく、触《さわ》りもなく、無限に実在してゐる空間がある。
荒寥《こうりよう》とした自然の中で、田舎の人生は孤立してゐる。婚姻も、出産も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてゐる。村落は悲しげに寄り合ひ、蕭条《しようじよう》たる山の麓《ふもと》で、人間の孤独にふるへてゐる。そして真暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戸《せど》の厩《うまや》に、かすかに蝋燭《ろうそく》の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇《くらやみ》にうづくまつて、先祖と共に[#「先祖と共に」に二重丸傍点]眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。(『大調和』1927年9月号)
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坂
坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遥《はる》かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。
坂が――風景としての坂が――何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。理由《わけ》は何でもない。それが風景における地平線を、二段に別別に切つてるからだ。坂は、坂の上における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる。だから我我は、坂を登ることによつて、それの眼界にひらけるであらう所の、別の地平線に属する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれ[#「あこがれ」に傍点]を呼び起す。
或る晩秋のしづかな日に、私は長い坂を登つて行つた。ずっと前から、私はその坂をよく知つてゐた。それは或る新開地の郊外で、いちめんに広茫とした眺めの向うを、遠くの夢のやうに這つてゐた。いつか一度、私はその夢のやうな坂を登り、切岸《きりぎし》の上にひらけてゐる、未知の自然や風物を見ようとする、詩的なAdventureに駆られてゐた。
何が坂の向うにあるのだらう? 遂《つい》にやみがたい誘惑が、或る日私をその坂道に登らした。十一月下旬、秋の物わびしい午後であつた。落日の長い日影が、坂を登る私の背後《うしろ》にした
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