力で、荒唐無稽にまで夢幻化されてゐるのである。(日の丸太郎やヘナチヨコ鐵砲。)然るにさうでなく、眞に本質的に「科學的」であり、「合理的」であるやうな童話が、果して今の子供たちに歡迎されるとすれば、單に不思議といふよりは、教育上の由々しき大問題と言はねばならぬ。なぜならそこには、文化の末路を杞憂させるものがあるからである。しかし思ふに、さうした話は事實でなく、事實であらせたいと望むところの、大人の子供に對する――特に教育者の子供に對する――意志表示を語るのだらう。つまり言へば彼等は、自身が好ましく欲するやうなものを、子供にも讀ませ、欲しさせたいのである。そして此處に、昔から日本の教育界に普及してゐる、大人の根本的な誤謬がある。
およそ一切の文化は――文學でも、藝術でも、科學でも――その發育の芽生えを、子供のフアンタスチツクな夢の中に持つてるのである。あらゆる文學と藝術とは、本質上に於て「詩」なのである。そして詩の芽生えが、子供の心意する夢の世界と、その幻想的なフエアリイランドに苗づいてることは言ふ迄もない。つまり逆に言へば、子供の自然的な童話精神が、そのまま順境に發育して、巨大な文化にまで茂つたものが、即ち文學や藝術の詩なのである。だが就中、科學はその最も代表的なものである。すべての科學は、不可能を可能にするイデーから出發した。人間が鳥のやうに、空中を飛翔したいといふ夢の願望。人語を肉類のやうに罐詰にして永く保存したり、隨意に再現したりしたいといふ希望。窓硝子に映つた自然の外景を、その一瞬間の姿のままで、永久に印畫しておきたいといふ夢想から、今日の飛行機や、蓄音器や、電話や、寫眞機やが發明された。そしてこの種の夢想や熱意やは、すべて子供の心意の中に、童話として實在してゐるものなのである。すべての驚くべき科學的大發明は、最も子供らしき夢の熱意と、最も荒唐無稽なフアンタジイから誕生した。一切の科學文化は、童話の合理化されたものに外ならない。科學精神の熱意されるところには、いつも一方に童話精神が熱意され、科學とお伽話とが、辨證法的コントラストの止揚によつて對立してゐるのが、どこでも文明國の常態である。それ故に獨逸、佛蘭西等の如く、世界で最も科學の發達してゐる國の子供は、最もよくフアンタジイのお伽話を好む子供であり、したがつてまた秀れた童話作家を、多分に所有してゐる國なので
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