ず、子供たちの住む世界は共通してゐる。白人の子供も黒人の子供も、すべての人間の子供は、本來フアンタスチツクな夢の宮殿に住んでゐるのだ。彼等の知つてる世界は、大人の知る「現實」の世界とはちがふのである。大人にとつて荒唐無稽のことは、彼等にとつて皆「眞實」のことなのである。すべての子供たちは、本來「夢」の中で育ち、そして夢を見ることによつて生き、夢を榮養食することによつて自己を生育させてゐるのである。古來、幾多の童話と童話作家が書いたものは、かうした子供の生活のレアリチイを、その自然性のままで表現したものに外ならない。グリムもアンデルセンも、日本の桃太郎やカチカチ山の作者も、すべて皆兒童心理學の大家であり、同時にフアンタスチツクの夢をもつてる詩人であつた。だが彼等の作家が居ない前から、本來子供自身の心の中に、童話が實在してゐたのである。そして童話そのものが、童話作家よりも古く、本質的に實在してゐたといふことは、東西古今を問はず、すべてのお伽話といふものは、元來同じ一つの物にすぎないといふことを證明する。ただその異なるところは、國による風俗傳説の相違、及び時代による趣味嗜好の異別にすぎない。たとへば西洋の惡魔が、日本では鬼や天狗の類となるし、昔の童話に出る武者修業の豪傑が、今日の新しい童話では、飛行機に乘つて機關銃を撃つたりするところの、科學的武裝をした日の丸太郎の類に變るのである。だが子供の心理が不變の限り、童話そのものの本質が變化するやうなことは有り得ない。いかに科學日本の躍進を誇る現代でも、本質的にフアンタスチツクの夢を持たず、子供の心理と沒交渉に語られる如き奇怪の童話、即ち「事實に即した現實主義の童話」とか「科學的合理主義の童話」なんてものは有り得ない。もしかりに有つたとしても、子供はそんな物を聽かうとしないし、童話といふ觀念の中にも入れないだらう。
 所が不思議なことには、今の日本の子供たちは、さういふ妙な似而非童話を、却つて悦んで聽くといふ人があるのである。これは信じられない話である。道理上から考へても、そんな不思議なことは有り得ない。勿論今の子供たちは、昔の素朴な玩具よりも、科學的玩具に多くの興味をもつのであるから、今の子供等の悦ぶ童話に、多くの科學的武器や機械が出て來るのは當然である。しかも童話の世界では、それらの機械や武器やが、驚くべきフアンタジイの空想
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