この「青猫」はそれと異なり、ポエヂイの本質が全く哀傷《ペーソス》に出發して居る。「月に吠える」には何の涙もなく哀傷もない。だが「青猫」を書いた著者は、始めから疲勞した長椅子《ソフハア》の上に、絶望的の悲しい身體《からだ》を投げ出して居る。
「青猫」ほどにも、私にとつて懷しく悲しい詩集はない。これらの詩篇に於けるイメーヂとヴイジヨンとは、涙の網膜に映じた幻燈の繪で、雨の日の硝子窓にかかる曇りのやうに、拭けども拭けども後から後から現れて來る悲しみの表象だつた。「青猫」はイマヂスムの詩集でなく、近刊の詩集「氷島」と共に、私にとつての純一な感傷を歌つた詩集であつた。ただ「氷島」の悲哀が、意志の反噬する牙を持つに反して、この「青猫」の悲哀には牙がなく、全く疲勞の椅子に身を投げ出したデカダンスの悲哀(意志を否定した虚無の悲哀)であることに、二つの詩集の特殊な相違があるだけである。日夏氏のみでなく、當時の詩壇の定評は、この點で著者のポエヂイを甚だしく誤解してゐた。そしてこの一つのことが、私を未だに寂しく悲しませてゐる。今この再版を世に出すのも、既に十餘年も經た今の詩壇で、正しい認識と理解をもつ別の讀者を、新しく求めたいと思ふからである。

 本書の標題「青猫」の意味について、しばしば人から質問を受けるので、ついでに此所で解説しておかう。著者の表象した語意によれば、「青猫」の「青」は英語の Blue を意味してゐるのである。即ち「希望なき」「憂鬱なる」「疲勞せる」等の語意を含む言葉として使用した。この意を明らかにする爲に、この定本版の表紙には、特に英字で The Blue Cat と印刷しておいた。つまり「物憂げなる猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「青猫」にも現れてる如く、都會の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐるので、當時田舍にゐて詩を書いてた私が、都會への切ない郷愁を表象してゐる。尚この詩集を書いた當時、私はシヨーペンハウエルに惑溺してゐたので、あの意志否定の哲學に本質してゐる、厭世的な無爲のアンニユイ、小乘佛教的な寂滅爲樂の厭世感が、自《おのづ》から詩の情想の底に漂つてゐる。

 初版「青猫」は多くの世評に登つたけれども、著者としての私が滿足し、よく詩集のエスプリを言ひ當てたと思つた批評は、當時讀んだ限りに於て、藏原伸二郎君の文だ
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