さうとした。全集や綜合詩集は例外として、すべて單一な標題を掲げた詩集は、その標題が示す一つの詩境を、力強く一點に向つて集中させ、そこに詩集の統一された印象を構成させねばならないこと、あだかも一卷の小説に於ける構成と同じである。一册の標題された詩集の中に、そのテーマやスタイルを異にしてゐる種種雜多の詩が書かれてるのは、藝術品としての統一がなく、内容上の美的裝幀を失格してゐる。そして「青猫」の初版本が、この點でまた不備であつた。例へば「軍隊」「僕等の親分」などのやうに詩の主想とスタイルとを異にして居る別種の者が混入して居り、他との調和美を破つて居た。再版の機會に於て、これもまた改訂編輯せねばならなかつた。
次の第二の理由は、初版本の裝幀、特に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪のことに關係して居る。私の始めのプランとしては、本書に用ゐた物と同じやうな木版畫を、初版本にも※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪とするつもりであつた。然るに出版書店の方で時日を迫り、版畫職工との煩瑣な交渉を嫌つた爲、止むを得ず有り合せの繪端書を銅版にして代用した。元來私の書物に於ては、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪が單なる裝飾でなく、内容の一部となつて居るのであるから、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪が著者の意に充たないのは、内容の詩集が意に充たないのと同じである。この點もまた機會を見て、再版に改訂せねばならなかつた。
最後に第三の理由としては、この詩集「青猫」が、私の過去に出した詩集の中で、特になつかしく自信と愛着とを持つことである。世評の好惡はともかくあれ、著者の私としては、むしろ「月に吠える」よりも「青猫」の方を愛してゐる。なぜならこの詩集には、私の魂の最も奧深い哀愁《ペーソス》が歌はれて居るからだ。日夏耿之介氏はその著「明治大正詩史」の下卷で、私の「青猫」が「月に吠える」の延長であり、何の新しい變化も發展も無いと斷定されてるが、私としては、この詩集と「月に吠える」とは、全然異つた別の出發に立つポエヂイだつた。處女詩集「月に吠える」は、純粹にイマヂスチツクのヴイジヨンに詩境し、これに或る生理的の恐怖感を本質した詩集であつたが、
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