さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。


 閑雅な食慾

松林の中を歩いて
あかるい氣分の珈琲店《かふえ》をみた
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店《かふえ》である。
をとめは戀戀の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほく[#「ふほく」に傍点]を取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた
空には白い雲がうかんで
たいそう閑雅な食慾である。


 馬車の中で

馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街燈の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舍をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。


 野景

弓なりにしなつた竿の先で
小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる
おやぢは得意で有頂天だが
あいにく世間がしづまりかへつて
遠い牧場では
牛がよそつぽをむいてゐる。


 絶望の逃走

おれらは絶望の逃走人だ
おれらは監獄やぶりだ
あの陰鬱な柵をやぶつて
いちどに街路へ突進したとき
そこらは叛逆の血みどろで
看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。

あれからずつと
おれらは逃走してやつて來たのだ
あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を
みんなは栗鼠のやうに這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた
いつもおれたちの行くところでは
暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。

逃走の道のほとりで
おれらはさまざまの自然をみた
曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や
おれらは逃走し
どこでも不景氣な自然をみた
どこでもいまいましいめに出あつた。

おれらは逃走する
どうせやけくその監獄やぶりだ
規則はおれらを捕縛するだらう
おれらは正直な無頼漢で
神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか
良心だつてその通り
おれらは絶望の逃走人だ。

逃走する
逃走する
あの荒涼とした地方から
都會から
工場から
生活から
宿命からでも逃走する
さうだ! 宿命からの逃走だ。

日はすでに暮れようとし
非常線は張られてしまつた
おれらは非
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