石段上りの街
萩原朔太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山巒《さんらん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)好い温泉[#「好い温泉」に傍点]
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私の郷里は前橋であるから、自然子供の時から、伊香保へは度々行つて居る。で「伊香保はどんな所です」といふやうな質問を皆から受けるが、どうもかうした質問に対してはつきりした答をすることはむづかしい。併し簡単に言へば、常識的の批判からみて好い温泉[#「好い温泉」に傍点]である。ここに常識的といつたのは、自然や設備の上で中庸といふ好みを意味して居る。だから特別の新らしい趣味で、赤城や軽井沢のやうな高原的風望を好いといふ人や、反対に少し古い趣味で塩原のやうなアカデミツクの景色――山あり、谷あり、滝あり、紅葉ありといつたやうな景色――を悦ぶやうな人や、その他特別の意味での情趣をたづねるやうな人には、伊香保はあまり好かれない温泉である。併しその特別の奇がないだけ、それだけ感じの落付いたおつとり[#「おつとり」に傍点]した所でもある。平凡と言つた所で、決していやな感じがする平凡ではない。言はば中産階級の温良な良家の娘をみるやうに、どこか親しみのある線の柔らかい自然である。特別に好いといふでもないが、さうかと言つても悪い気もしない。若い新趣味の人には食ひ足らず、古い老人には漢詩的風情がなさすぎる所から、一般に伊香保の愛顧者は温健な婦人に多い。私が伊香保を常識的だと言つたのは、先づかういつた意味である。
併し、女性的とはいへ、山の温泉であるから、樹木が多く、雲や霧がふだんに立ちこめて、山巒《さんらん》といふ感じは充分にある。鶯や駒鳥はいつも鳴いてゐるし、樹陰の深い緑は所々にあるし、それだけで山間の別天地をなした鮮新な温泉町としてゐる。前に言つたやうな特別の注文さへなければ、だれも閑雅な好い感じをもつことができる温泉である。設備の点からいつても、決して人を不快にするやうな者ぢやない。勿論、箱根あたりとくらべれば、全体に田舎めいてゐるが、併しそれも、悪い意味での田舎くさい感じはあたへない。千明《ちぎら》とか木暮《こぐれ》といふ一流の旅館なら、相当にゆつたりした寝起をすることができる。
私は可成所々――所々といつても東京附近だが――の温泉を歩いたが、未だこれといふやうな温泉には一つも行きあたらない。どこも皆面白くない。就中、信州の渋とか湯田中といふやうな百姓めいた温泉、言はば「田舎者の湯治場」といつた感じのする所は何より嫌ひだ。さうした所は、単に温泉町そのものの気分が田舎めいて陰気くさいばかりでなく、周囲の自然そのものからして、妙に百姓じみて感じが重苦しい。私は鮮緑といふやうな明るい感じがすきだから、百姓風のぢみくさい気分は陰気でいやだ。尤も野州の那須のやうに、温泉場としては、代表的な「田舎者の湯治場」でありながら、自然としては極めて明快な高原的眺望をもつた所もある。次でだから言ふが、那須野の自然は実際好い。軽井沢に似て、も少し感じが粗野であるが、それが如何にも処女地といふ新鮮な響をあたへる。どこからどこまで「青春」とか「若さ」とかいふ叙情的の印象がみなぎつてゐる。一寸附近の林の中へ這入つても、雨のやうな緑と、気品の高い青空の影とを感ずる。げにそこには若き日本の若い人の情緒がある。高貴にして教養ある趣味がある。しかもこの新日本的の那須野と対照して、那須温泉そのものの薄暗い感じを思ふのは不快である。何故といつて、あの温泉は、田舎の百姓が湯の隅で念仏を称へたり、不潔な女をひやかしたりするやうな、全然田舎風の空気をもつた浴場であつて、周囲の新鮮な自然と全く不調和であるからである。
併し、田舎風の温泉でなくとも、塩原のやうな所はまた嫌ひである。ああした種類の風景は、もはや時代遅れの趣味に属するもので、近代の若い人には感興がない。どこか南画くさい、古い趣味の美文めいたあの辺の景色は、今日ではむしろ俗である。それにあすこの福和戸《ふくわと》のやうながらんどう[#「がらんどう」に傍点]の温泉、普通の駅路の両側に家が並んだやうな温泉は、どこか埃くさい気がするのと、まとまり[#「まとまり」に傍点]のない不安な気がするので、とても落付いた気分になれない。温泉はやはり山の峡谷のやうな所に、そこだけで一廓をなしてゐなければいけない。その他まだ嫌ひな温泉の種類をあげればたくさんある。伊豆の伊東のやうな、海岸の温泉も嫌ひのものの一つである。すべて海岸の温泉には、温泉らしい情趣がすくない。普通の田舎町らしい――漁師町らしい――気分と、温泉町らしい特異の気分とが不調和に混同して、妙に落付きの悪い安価の印象をあたへる。それに場所も平地であるから、雲霧とか山霧とかいふ温泉
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