特有の情趣がなく、すべて感じが乾燥して居る。尤も伊東は特別にくだらぬ温泉であるが、他の熱海でも別府でも、温泉らしくない点では、伊東と大同小異であらう。
 さてこのやうに考へてくると、皆嫌ひな温泉ばかりで、好きだと言ふのは一つもない。自分の好きな注文を言へば、第一、感じが明るく、言はば「静かな華やかさ」を持つてゐなければいけない。つまりそれは、田舎の湯治場にみる「賑やかな陰気さ」の反対である。人間でも建築でも、田舎風の煤ぼけた者ががやがや[#「がやがや」に傍点]混み合つて居るのでなくして、都会風の明るい感じの者で、小ぢんまりとして居る所が好い。一体、温泉などといふものは、周囲が極めて閑寂であるから、之れと反映するために、生活の気分を華やかにする必要がある。すくなくとも気を滅入らせない程度の明るさがなくてはならぬ。衣装にすれば色彩の鮮明な、白とか、青とか、水色とかいつたやうなものが好く、建築にすれば、感じの薄暗い田舎風の家より、明るい西洋建築や、軽快な都会風の家屋が好い。温泉場や避暑地の興味に於ける大部分は、一種のロマンチツクな夢幻的情趣――山巒の奥深く美しい生活の夢を捉へるといふやうな、言はば山間都市に対する蜃気楼的な幻想――にある。順つてそれが周囲に対して特異な気分を反映するほど、さうした場所の印象と魅惑を深くする。(言ふ迄もなく、それは調和ある反映[#「調和ある反映」に丸傍点]である。緑陰に白のベンチを配合するといつた反映である。不調和な都会風は、却つて折角の自然美を俗悪にする。)
 それ故、私の好みから言へば、先づ関東附近で「好き」と言ひ得る温泉は、何といつても箱根だけである。日光や軽井沢も悪くないが、それは温泉でないから別として、温泉では箱根を第一位にあげたい。人工的方面や、温泉場としての気分の好いことは勿論だが、自然の展望から言つても、箱根の感じは別である。全体に明るくて、新緑といふやうなフレツシユの気分が高い。箱根の気分は、旧日本のそれでなくして、矢張新日本のそれである、老人の好みでなくして青年の好みである。さて、箱根に次いで、どこが好きかと言はれると、もはや返事に困るが、嫌ひでないといふ側からなら、先づ第一に伊香保をあげたい。前に言つた通り、伊香保は中庸的の温泉であるから、自分の趣味で好き[#「好き」に傍点]といふには不適当だが、嫌ひ[#「嫌ひ」に傍点]といふやうな所は全くない。「ああ好い」といふ風な強い印象はないが、何度行つてもその度毎に親しみのあるやうな、比較的飽きない温泉である。秋草を日本趣味といふ意味での、おとなしい閑雅さから、伊香保を日本趣味といふのは適評である。明るいといふでもなく、暗いといふでもなく、言はばその明暗の中間が伊香保の気分であらう。
 伊香保の特色は、だれも感ずる如く、その石段あがりの市街にある。実際伊香保の町は、全部石垣で出来て居ると言つても好い。その石段の両側には、土産物の寄木細工を売る店や、かういふ町に適当な小綺麗の小間物屋や、舶来煙草を飾つた店や、中庭に廻廊のある二層三層の温泉旅館が、軒と軒とを重ね合せて、ごてごてと不規則に並んで居る。そしてその石段道の一方からは、絶えず温泉くさい湯気が朦々と立ち登つて、如何にも温泉場らしい特異の感じがする。それに山の霧が多いので、いつも水蒸気で町の軒灯が紅色にかすんで、一層山間都市の華やかな感じを深める。また伊香保の町は、全体に細い横丁や路地の多い、抜道だらけの町である。人の家の中庭を突つきつて街路へ出たり、狭い石垣の下を通つて横丁へ出たり、勝手口のやうな裏道を迂廻したり、小さな坂を登つたり降りたりする所が多い。伊太利のナポリ辺へ行くと、市街の家並が不均斉で、登つたり降りたり、中庭を突つ切つたり、路地から路地へ曲つたりする迷路のやうな市街が多いといふことを聞いてゐるせいか、伊香保の町の裏通りを歩くと、何となく南欧の田舎町といふ感じがする。
 今の伊香保の第一印象は、電車の停車場附近であるが、あの辺の気分も悪くない。第一、ああした山の中に、電車の停車場といふやうな者があると、その辺の空気を奇体に明るくする。それは丁度、深い密林の中で白堊の洋館を見る時のやうな感じである。そこに一種の鮮新な喜悦――心の視野が遠く延びて行くやうな喜悦――がある。適度の文明的人工物は、自然をして軽快ならしめ、森や林や山巒に、微かな香水の匂ひをあたへる。緑蔭に於ける白のベンチ、野景に於ける女のパラソル等も、またこの意味でのよい人工的反映である。新緑の中を走る電車、それは伊香保の追憶の中で、最も情緒の高いものであらう。併し伊香保の設計者は、折角のかうした情趣を充分に生かして居ない。あの辺は、伊香保にとつて何より大切な第一印象であるから、も少しフレツシユな色調をもたせることが必
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