要である。全体に伊香保の人は、自然の美を人工によつて開発する[#「開発する」に丸傍点]ことを知らない。さういふ所はよほど田舎じみて居る。
伊香保のいちばんいい季節は、晩春四五月から、初夏の六七月へかけた時期である。真夏の伊香保は、自然としても初夏のそれに劣るが、何しろ悪いことは、文字の通りの意味で雑鬧混雑を極めることである。夏伊香保へ行つた人は、たいてい宿屋のことから気分を害し、順つて伊香保全体を悪く見てしまふ。夏の伊香保は自分たちの行く所ぢやない。温泉場の気分は「静かな華やかさ」にあつて「賑やかな騒々しさ」にないのだから。とはいへ秋の伊香保もまた感心しない。自然は相当に美しいが、何分近在の百姓が大勢詰めかけるので、伊香保そのものの空気が、まるで田舎の温泉場に変つてしまふ。その頃の伊香保は、何となく感じが黒ずんで陽快な所がない。
だから伊香保は、どうしても春でなければいけない。尤も春といつても、山の春は遅いから、伊香保で春といへば五月か六月であらう。その頃の伊香保はほんとに好い。一体、伊香保に限らず、温泉町の春の夜は別である。裏町の溝を流れる湯の匂ひや、朧ろにかすむ紅色の軒灯や、枕に近い湯滝の音やが、何とも言へぬ春らしい感じを起させる。浴室の硝子障子を通して新緑の山を見てゐると、どこかで鶯が鳴いて居る。さうした「静かな華やかさ」を味ふには、伊香保へ春くるに限る。この頃伊香保へきて感じを悪くするやうなことは決してない。
伊香保の浴客にとつて、日課的の散歩道となつてゐるのは、崖に沿うて湯元へ通ふ十数町の道であるが、その途中に橋があつて、そこから榛名へ登ることができる。この橋のあるあたりの小高い崖の上に、湯元ホテルとかいふ木造のホテル兼レストランがある。別に何の奇もない平凡な木造建築であつて、ホテルと言つてもごく簡便な物であるが、それがどことなく西洋の野菜料理店といつた感じがする。それに好い加減古びてゐるのと場所柄とで、何となく物寂びた雅致を帯びて、静かな廃屋といつたやうな情趣がある。朝夕の散歩のかへり道に、このホテルの静かな食堂へ入つて、大層冥想的な紅茶を飲むのは、温泉場の物侘しい生活にふさはしいことである。
榛名へはかつて一度登つたことがある。湖畔亭のあたり、真青な湖水の上に、白鳥のやうな白いボートが浮んで居たのを夢のやうにおぼえてゐる。併し山として、榛名は特色のない山である。赤城のやうな洋画的の山でもなければ、妙義のやうな文士画風の山でもない。矢張伊香保そのものの感じと同じく中庸的である。その外、伊香保の附近には一寸した滝とか小山とかがあつて、夫婦づれの浴客などがよく散歩するが、快適な散歩に適した所は極めてすくない。軽井沢附近には、如何にも軽快な、そしてどこか冥想的な、如何にも散歩らしい気分のする道がすくなくない――尤もあの辺では、その目的のために、わざわざ並木を植ゑた遊歩地のようなものができてゐる――伊香保には、ほんとの散歩道といふものはない。ただむやみに歩くだけの道ならあるが、散歩といふ感じを特に持つやうな所は附近にない。(勿論、少し人工的園芸を加へれば、容易にさうした情趣を持たすことができる。谷に沿つた林の中などは、道さへつければ可成の遊歩地ができるし、附近の山道なども、ちよつとした手入れと設備でどうにでもなるから。)之れを全体から言へば、温泉としての伊香保は、すべてに於て箱根に劣るが、他の塩原等にくらべれば、よほど優つてゐるやうである。関東地方の温泉では、先づ「好い温泉」といふ部類に属するものであらう。特に私の知つてゐるだけの範囲で言へば、その上位に属して居る。
この温泉の空気を代表する浴客は、主として都会の中産階級の人であるが、とりわけさうした人たちの若い夫人や娘たち――と言つても、大磯や鎌倉で見るやうな近代的な、中凹みで睫毛の長い表情をした娘たちではない。矢張、不如帰の女主人公を思はせるやうな、少しく旧式な温順さをもつた、どこか病身らしい細顔の女たち――である。前に伊香保の愛顧者は女性に多いと言つたが、つまりその女性とはかういつたやうな、中庸的の夫人や娘たちである。不思議に伊香保といふ所は、何から何まで女性的であり中庸的である。
最近、私の友人で伊香保へ来た人には、前田夕暮君と室生犀星君がある。谷崎潤一郎君と始めて逢つたのも此所であつた。この人たちの伊香保に対する批評は概して可もなく不可もなしといふ所であらう。
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子持山若かへる手の紅葉まで我はねもとおもふ汝は何ぞと思ふ 万葉集
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底本:「日本随筆紀行第五巻 関東 風吹き騒ぐ平原で」作品社
1987(昭和62)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第八巻」筑摩書房
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