のべつに書き下したもの必しも散文ではない。)兩者の區別は、全く感じ得られる内在律の有無にある。一言にして定義すれば「詩とはリズム(内的音樂)を明白に感じさせるもの」であり、散文とはそれの感じられないもの、もしくは甚だ不鮮明の者である。(故に詩と他の文學との識域はぼかし[#「ぼかし」に丸傍点]である。既に表現に於ける形式上の區別がない。さらば何を以て内容上の本質的定規とすることができようぞ。詩の情想と散文の情想との間に、何かの本質的異別ある如く考ふるは妄想である。詩も小説も、本質は同一の「美」の心像にすぎない。要はただその浪の高翔と低迷である。詩は實感の上位に跳躍し[#「詩は實感の上位に跳躍し」に丸傍点]、散文は實感の下位に沈滯する[#「散文は實感の下位に沈滯する」に丸傍点]。畢竟、此等の語の意味を有する範圍は相對上の比較に止まる。絶對を言へばすべて空語である。我等の言葉は絶對を避けよう。)
 さてそれ故に、今日自由詩に對して言はれる一般の通義は適當でない。一般の通義は、自由詩をさして「散文で書いた詩」と稱して居る。けだしこの意味で言ふ散文とは、過去の韻文に對して名稱した散文である。かか
前へ 次へ
全94ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング