表現に於ては、言葉が極めて有機的に使用され、その一つ一つの表象する心像、假名づかひや綴り語の美しい抑揚やが、あだかも影日向ある建築のリズムのやうに、不思議に生き生きとした魅惑を以て迫つてくる。一言にして言はば、作者の心内の節奏が、それ自ら言葉の節奏となつて音樂のやうに聽えてくる。之れに反して一方の文學では、しかく肉感性の高調された表現がない。ここでは全體に節奏の浪が低い。言葉はしかく音樂的でなくむしろ觀念の説明に使用されてゐる。即ち言語の字義が抽象する概念のみが重要であつて、言葉の人格とも言ふべき感情的の要素――音律や、拍節や、氣分や、色調や、――が閑却されて居る。今此等二種の文學の比較に於て、前者は即ち我等の言ふ「韻文」であり、後者は即ち眞の「散文」である。そしてまた此の文體の故に、前者は明らかに「詩」と呼ばれ、後者は「小説」もしくは「論文」もしくは「感想」と呼ばるべきである。
かく我等は、我等の新しき定義にしたがつて韻文と散文とを認別し、同時にまた詩と他の文學とを差別する。詩と他の文學との差別は、何等外觀に於ける形式上の文體に關係しない。(行を別けて横に書いた者必しも詩ではない、
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