トンの失樂園やは、今日に於て既に詩の範圍に屬さない。韻文といふ言葉は、それ自身の響に於て古雅なクラシツクな感じをあたへる。そは時代の背後に榮えた前世紀の文學である。今日我等の新しき地球上に於て、もし現に「韻文」なる觀念がありとすれば、そは從來と全く別の心像を取るであらう。したがつてまた之れが對照たる「散文」も、一つの別な新しい觀念に立脚せねばならぬ。
しばしば今日の文壇では、自由詩に對する小説の類が散文と呼ばれる。この意味での「散文」とは何を意味するか。自由詩は舊來の意味での韻文でない。在來の觀念よりすれば自由詩は散文である。さらば自由詩に對して言ふ散文とは何の謂か。かかる稱呼は全く笑止なる沒見識と言はねばならぬ。しかしながら今日、韻文對散文の觀念はもはや舊來の如き者でない。自由詩以後、我我の韻律に對する定義は一變した。かつて韻律は拍子(拍節の周期律)を意味した。然るに新しき認識は、拍子がリズムの一分景に過ぎないことを觀破した。拍子以外、尚一つの旋律といふリズムがあるではないか。旋律こそは廣義の意味でのリズムである。かくて我我の「韻律」の概念は擴大された。今日我我のいふ韻律の語意は實
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