は、既にその心像に快美なリズムがない。どうしてその再現にリズムがあり得よう。リズムとは單なる「感じ」を言ふのでなく、節奏のある「音樂的の感じ」を言ふのである。それ故に自由詩は、その心に眞の高翔せる詩的情熱をもつ所の、眞の「生れたる詩人」に非ずば作り得ない。心に眞の音樂を持たない人人にして、もしあへて自由詩の創作を試みるならば、そは單に「實感の如實的な表現」即ち普通の散文となつてしまふであらう。そこでは「感じ」が出てゐる。しかも「リズム」が出ない。そしてその故に、そは詩としての效果――韻律の誘惑する陶醉的魅惑――を持つことができない。けだし自由詩の如きは、全く「選ばれたる人」にのみ許された藝術である。
さて、今や我等は、文學史上に於ける一つの新しき概念を構成しよう。そもそも所謂「韻文」と「散文」との對照は何を意味するか。韻文とは、言ふ迄もなく韻律を踏んだ文章である。しかしながらこの「韻律」といふ言葉は、舊來の意味と今日大に面目を一新した。したがつてまた「韻文」なる語の觀念も、今日に於て新しく改造されねばならぬ。從來の意味で言はれる限り、韻文は既に時代遲れである。ゲーテのフアウストやミル
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