ある」に丸傍点]。たとへば次の如き詩想――「心は絶望に陷り、悲しみの深い沼の底をさまよつて居る。」――が心像として浮んだ時、それは常に一つの抑揚ある氣分として感じられる。そこには或る一つの情緒的な、耳に聽えないメロヂイが低迷してゐる。我我は明らかにそのメロヂイ――氣分の抑揚――を感じ得る。そして此所に詩のリズムが生れるのである。さればこの「音樂の心像」は、それ自ら「詩の心像」であつて、兩者は互に重なり合つた同一觀念に外ならぬ。この限りに於て、我我の言葉でも亦「歌」は「唄」である。言ひ換へれば「詩即リズム」である。リズムの心像を離れて詩の觀念はなく、詩の觀念を離れてリズムの心像はない。リズムと詩とは畢竟同一物の別な名稱にすぎないのだ。それ故我我の詩が、我我の音樂[#「音樂」に丸傍点]の直接な表現であるといふ上述の説明は、之れを一面から言へば、詩想それ自身の直接な表現を意味してゐる。自由詩の表現は、實にこの詩想の抑揚の高調されたる肉感性を捕捉する。情想の鼓動は、それ自ら表現の鼓動となつて現はれる。表現それ自體が作家の内的節奏となつて響いてくる。詩のリズムは即ち詩の VISION である。か
前へ
次へ
全94ページ中72ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング