に浮びあがり、一つの立體的な情調――即ち「詩」――として印象されるのである。之れに反して自由詩の低劣な者には、全然どこにも韻律的な魅惑がない、即ち純然たる散文として印象される。故に定律詩の失敗したものは[#「定律詩の失敗したものは」に丸傍点]、尚且つ最低價値に於ての[#「尚且つ最低價値に於ての」に丸傍点]「詩[#「詩」に丸傍点]」であることができるが[#「であることができるが」に丸傍点]、自由詩の失敗したものは[#「自由詩の失敗したものは」に丸傍点]、本質的に全く[#「本質的に全く」に丸傍点]「詩[#「詩」に丸傍点]」でない[#「でない」に丸傍点]。定律詩の困難は、最初に押韻の方則を覺え、その格調の心像を意識に把持する、即ち所謂「調子に慣れる」迄である。然るに自由詩の困難は無限である。我等は一篇毎に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。永久に、最後まで、調子に慣れるといふことがない。
定律詩の形式に於ては、本質的の詩人でない人すら、尚よく技巧の學習によつて相應の階段に昇ることができる。人の知る如く、定律詩の中には教訓詩や警句詩や諷刺詩やの如き者すらある。此等の者は、情想の本質に於て詩と言ふべきでない。なぜならばそは一つの理智的な「概念」を敍したものである。そこには何等の「感情」がない。よつて以てそれが詩のリズムを生む所の内部節奏――心の中の音樂――がない。しかも彼等は、之れに外部からの音樂――詩の定まれる韻律形式――をあたへ、それの節づけによつて歌はうとする。かくて本來音樂でないものが、拍節の故に音樂として聽えてくる。本來詩でないものが、形式の故に詩として批判される。勿論こは極端の例にすぎない。けれどもこれに類した者が、一般の場合にも想像されるだらう。實際多くの定律詩人の中には、何等その心の中に詩情の醗酵せる音樂を感ずることなく、單にその手慣れたる格調上の技巧によつて、容易に低調な思想を詩に作りあげてしまふ。性來全く詩人的天質を缺いて居たと想像される所の、或る日本の老學者は、自ら「古今集を讀むこと一千遍」にして詩人に成り得た[#「成り得た」に丸傍点]と言つて居る。かくの如く定韻詩に於ては、詩の格調を會得し、その「外部からの音樂の作曲法」に熟達することによつて、とにかくにも一通りの作家となることができる。その價値の優劣を論じない限り、必しも「内部の音樂」の實在を必要と
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