成功によつて――多少の詩的效果を贏ち得るだらう。その他の者は、すべて讀者にまで何の著しい詩的感興をもあたへない。なぜならばそこには何の高調されたるリズムも表白されて居ないから、即ち普通の退屈な散文として讀過されてしまふから。かく既に詩としての效果を缺いたものは、勿論本質的に言つて詩ではない。故にまたそれは自由詩でない。
けだし自由詩の創作は、特種の天才に非ずば不可能である。天才に非ずば、いかでその「心内の節奏」を「言葉の節奏」に作曲することができようぞ。天才は何物にも束縛されず、自由に大膽に彼の情緒を歌ひ、しかもそれが期せずして美しき音樂の調律となるであらう。ただかくの如きは希有である。通常の詩人の學び得る所でない。之れに反して普通の定律詩は、概して何人にも學び易く堂に入り易い。なぜならばそこでは、始から既に一定の調律がある。始から既に音樂の拍節がある。最初まづ我等は之れに慣れ、十分よくそのリズムの心像を把持するであらう。さらば我等の詩想は、それが意識されると同時に、常にこの音樂の心像と結びつけられ、互に融合して自然と外部に流出する。ここでは既に「韻律の軌道」が出來て居る。我等の爲すべき仕事は、單に情想をして軌道をすべらせるにすぎぬ。そは極めて安易であり自由である。然るに自由詩には、この便利なる「韻律の軌道」がない。我等の詩想の進行では、我等自ら軌道を作り、同時に我等自ら車を押して走らねばならぬ。之れ實に二重の困難である。言はば我等は、樂典の心像を持たずして音樂の作曲をせんとするが如し。眞に之れ「創造の創造」である。自由詩の「天才の詩形」と呼ばれる所以が此所にある。
定律詩の安易なる最大の理由は、たとへそれが失敗したものと雖も、尚相當に詩としての價値をもち得られることである。けだし定律詩には既成の必然的韻律がある故に、いかに内容の低劣な者と雖も、尚多少の韻律的美感を讀者にあたへることができる。しかして韻律的美感をあたへるものは、それ自ら既に詩である。實際、近世以前に於ては敍事詩といふ者があつた。敍事詩は、内容から言ふと明白に今日の散文であつて、歴史上の傳説や、小説的な戀物語やを、單に平面的に敍述した者にすぎないのであるが、その拍節の整然たる調律によつて、讀者をいつしか韻律の恍惚たる醉心地に導いてしまふ。したがつてその散文的な内容すらが、實體鏡で見る寫眞の如く空中
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