しないのである。
之れに反して自由詩には、何等練習すべき樂典がなく、規範づけられたるリズムがない。自由詩の作曲に於ては、心の中の音樂がそれ自ら形體の音樂であつて、心内のリズムが同時に表現されたるリズムである。故にその心に明白なる音樂を聽き、詩的情操の醗酵せる抑揚を感知するに非ずば、自由詩の創作は全く不可能である。もし我等の感情に節奏がなく、高翔せる詩的氣分の抑揚――即ち心内の音樂――を感知せずば、どうしてそこに再現さるべき音樂があらう。即ちかかる場合の表現は何の快美なるリズムもない平坦の言葉となつてしまふ。世には自由詩の本領を誤解して居る人がある。彼等は自由詩の標語たる「心内の節奏《リズム》と言葉の節奏《リズム》との一致」を以て、單に「實感の如實的な再現」と解してゐる。これ實に驚くべき誤謬である。もしかくの如くば、すべての文學や小説は皆自由詩である。詩の詩たる特色は、リズムの高翔的美感を離れて他に存しない。「心内の節奏」とは、換言すれば「節奏のある心像」の謂である。節奏のない、即ち何等の音樂的抑揚なき普通の低調な實感を、いかに肉感的に再現した所でそれは詩ではない。なぜならばこの類の者は、既にその心像に快美なリズムがない。どうしてその再現にリズムがあり得よう。リズムとは單なる「感じ」を言ふのでなく、節奏のある「音樂的の感じ」を言ふのである。それ故に自由詩は、その心に眞の高翔せる詩的情熱をもつ所の、眞の「生れたる詩人」に非ずば作り得ない。心に眞の音樂を持たない人人にして、もしあへて自由詩の創作を試みるならば、そは單に「實感の如實的な表現」即ち普通の散文となつてしまふであらう。そこでは「感じ」が出てゐる。しかも「リズム」が出ない。そしてその故に、そは詩としての效果――韻律の誘惑する陶醉的魅惑――を持つことができない。けだし自由詩の如きは、全く「選ばれたる人」にのみ許された藝術である。
さて、今や我等は、文學史上に於ける一つの新しき概念を構成しよう。そもそも所謂「韻文」と「散文」との對照は何を意味するか。韻文とは、言ふ迄もなく韻律を踏んだ文章である。しかしながらこの「韻律」といふ言葉は、舊來の意味と今日大に面目を一新した。したがつてまた「韻文」なる語の觀念も、今日に於て新しく改造されねばならぬ。從來の意味で言はれる限り、韻文は既に時代遲れである。ゲーテのフアウストやミル
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