あらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。

      ※[#蛇の目、1−3−27]

 感覺的鬱憂性! それもまた私の遠い氣質に屬してゐる。それは春光の下に群生する櫻のやうに、或いはまた菊の酢えたる匂ひのやうに、よにも鬱陶しくわびしさの限りである。かくて私の生活は官能的にも頽廢の薄暮をかなしむであらう。げに憂鬱なる、憂鬱なるそれはまた私の敍情詩の主題《てま》である。
 とはいへ私の最近の生活は、さうした感覺的のものであるよりはむしろより多く思索的の鬱憂性に傾いてゐる。(たとへば集中「意志と無明」の篇中に收められた詩篇の如きこの傾向に屬してゐる。これらの詩に見る宿命論的な暗鬱性は、全く思索生活の情緒に映じた殘像である。)かく私の詩の或るものは、おほむね感覺的鬱憂性に屬し、他の或るものは思索的鬱憂性に屬してゐる。しかしその何れにせよ、私の眞に傳へんとするリズムはそれでない。それらの「感覺的なもの」や「觀念的なもの」でない。それらのものは私の詩の衣裝にすぎない。私の詩の本質――よつて以てそれが詩作の動機となるところの、あの香氣の高い心悸の鼓動――は、ひとへにただあのいみじき横笛の音の魅惑にある。あの實在の世界への、故しらぬ思慕の哀傷にある。かく私は歌口を吹き、私のふしぎにして艶めかしき生命《いのち》をかなでようとするのである。
 されば私の詩風には、近代印象派の詩に見る如き官能の耽溺的靡亂がない。或いはまた重鬱にして息苦しき觀念詩派の壓迫がない。むしろ私の詩風はおだやかにして古風である。これは情想のすなほにして殉情のほまれ高きを尊ぶ。まさしく浪漫主義の正系を踏む情緒詩派の流れである。

      ※[#蛇の目、1−3−27]

「詩の目的は眞理や道徳を歌ふのでない。詩はただ詩のための表現である。」と言つたボドレエルの言葉ほど、藝術の本質を徹底的に觀破したものはない。我等は詩歌の要素と鑑賞とから、あらゆる不純の概念を驅逐するであらう。「醉」と「香氣」と、ただそれだけの芳烈な幸福を詩歌の「最後のもの」として決定する。もとより美の本質に關して言へば、どんな詭
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