辯もそれの附加を許さない。
※[#蛇の目、1−3−27]
かつて詩集「月に吠える」の序に書いた通り、詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
生活の沼地に鳴く青鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。
※[#蛇の目、1−3−27]
詩はいつも時流の先導に立つて、來るべき世紀の感情を最も鋭敏に觸知するものである。されば詩集の眞の評價は、すくなくとも出版後五年、十年を經て決せらるべきである。五年、十年の後、はじめて一般の俗衆は、詩の今現に居る位地に追ひつくであらう。即ち詩は、發表することのいよいよ早くして、理解されることのいよいよ遲きを普通とする。かの流行の思潮を追つて、一時の淺薄なる好尚に適合する如きは、我等詩人の卑しみて能はないことである。
詩が常に俗衆を眼下に見くだし、時代の空氣に高く超越して、もつとも高潔清廉の氣風を尊ぶのは、それの本質に於て全く自然である。
※[#蛇の目、1−3−27]
詩を作ること久しくして、益益詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。
[#地から3字上げ]利根川に近き田舍の小都市にて 著者
[#改ページ]
凡例
一。第一詩集『月に吠える』を出してから既に六年ほど經過した。この長い間私は重に思索生活に沒頭したのであるが、かたはら矢張詩を作つて居た。そこで漸やく一册に集つたのが、この詩集『青猫』である。
何分にも長い間に少し宛書いたものである故、詩の情想やスタイルの上に種々の變移があつて、一册の詩集に統一すべく、所所氣分の貫流を缺いた怨みがある。けれども全體として言へば、矢張書銘の『青猫』といふ感じが、一卷のライト・モチーヴとして著者の個性的氣稟を高調して居るやに思ふ。
二。集中の詩篇は、それぞれの情想やスタイルによつて、大體之れを六章に類別した。即ち「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」、「さびしい青猫」、「閑雅な食慾」、「意志と無明」、「艶めける靈魂」他詩一篇である。この分類の中、最初の二章(「幻の寢臺」、「憂鬱なる櫻」)は、主として創作年代の順序によつて配列した。此等の章中に收められた詩篇は、概ね雜誌『感情』に掲載したものである
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