青猫
萩原朔太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)激情《パツシヨン》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)困|憊《ぱい》し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#蛇の目、1−3−27]
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序
※[#蛇の目、1−3−27]
私の情緒は、激情《パツシヨン》といふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]であり、かの春の夜に聽く横笛のひびきである。
ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。
およそいつの時、いつの頃よりしてそれが來れるかを知らない。まだ幼《いと》けなき少年の頃よりして、この故しらぬ靈魂の郷愁になやまされた。夜床はしろじろとした涙にぬれ、明くれば鷄《にはとり》の聲に感傷のはらわたをかきむしられた。日頃はあてもなく異性を戀して春の野末を馳せめぐり、ひとり樹木の幹に抱きついて「戀を戀する人」の愁をうたつた。
げにこの一つの情緒は、私の遠い氣質に屬してゐる。そは少年の昔よりして、今も猶私の夜床の枕におとづれ、なまめかしくも涙ぐましき横笛の音色をひびかす、いみじき横笛の音にもつれ吹き、なにともしれぬ哀愁の思ひにそそられて書くのである。
かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてら[#「かすてら」に傍点]の脆い翼《つばさ》をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。
されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢい[#「えれぢい」に傍点]を聽くで
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