ではないだらう。

 鏡  戀愛する「自我」の主體についての覺え書。戀愛が主觀の幻像であり、自我の錯覺だといふこと。

 虚數の虎  「機因《チヤンス》」といふ現象は、客觀的には決定されたもの(因果律の計算する必然的な數字)であるけれども、主觀的には全く氣まぐれな運であり、偶然のもの[#「偶然のもの」に傍点◎]にすぎない。賭博の興味は、その氣まぐれな運をひいて、偶然の骰子《さいころ》をふることから、必然の決定されてる結果を、虚數の上に賭け試みることの冒險にある。すべての博徒等は、その生涯を惜しげもなく、かかる冒險に賭けて悔いないところの、烈しい情熱を持つてゐる。しかしながらその情熱は、何の實數的所得もないところの、單なる虚數の浪費にすぎない。怒れる虎が、空洞に咆えるやうなものである。

 自然の中で  「耳」といふ題で、私は他の別のところに、この短かい詩を書き改へた。その全文は

  山の中腹に耳がある。

 何れにしても同じく、表現しようとしたことは、永劫の時間に渡つて、無限の空間に實在してゐるところの、大自然の巨人のやうな靜寂さを描いたのである。老子の所謂「谷神不死」「玄ノ玄、牝ノ牝、コレヲ玄牝ト謂フ」の類。

 觸手ある空間  東洋に於て宿命的なるものは、必しも建築ばかりでない。

 大佛  大佛は、東洋人の宗教的歸依が心象する夢魔である。

 黒い洋傘  洋傘は宿命を象徴する。

 國境にて  過去の思想や慣習を捨て、新しい生活へ突進する人は、その轉生の旅行に於て、汽車が國境を越える時に、舊き親しかつた舊知の物への、別離の傷心なしに居られない。

 齒をもてる意志  生きんとする意志。生殖しようとする意志。すべての生物は、その盲目的な生命本能の指令によつて、悲しくも衝動のままに動かされてる。ひとり寂しく、薄暮の部屋に居る時さへも、鱶のやうに鋭どい齒で、私の肉に噛みついてくる意志!

 墓  死とは何だらうか? 自我の滅亡である。では自我《エゴ》とは何だらうか。そもそもまた、意識する自我《エゴ》の本體は何だらうか? デカルトはこれを思惟の實體と言ひ、カントは認識の主辭だと言ひ、ベルグソンは記憶の純粹持續だと言ひ、シヨペンハウエルと佛教とは、意志の錯覺によつて生ずるところの、無明と煩惱の因縁《いんねん》だと言ふ。そして尚近代の新しい心理學者は、自我の本體を意識の温覺感點だと言ふ。諸説紛紛。しかしながら、たとへそれが虚妄の幻覺であるとしても、デカルトの思惟したことは誤つてない。なぜなら「我れが有る」といふことほど、主觀的に確かな信念はないからである。だがかかる意識の主體が、肉體の亡びてしまつた死後に於ても、尚且つ「不死の蛸」のやうに、宇宙のどこかで生存するかといふ疑問は、もはや主觀の信念で解答されない。おそらく我々は、少しばかりの骨片と化し、瓦や蟾蜍と一所に、墓場の下に棲むであらう。そこにはもはや何物もない。知覺も、感情も、意志も、悟性も、すべての意識が消滅して、土塊と共に、永遠の無に歸するであらう。ああしかし……にもかかはらず、尚且つ人間の妄執は、その蕭條たる墓石の下で、永遠に生きて居たい[#「生きて居たい」に傍点◎]と思ふのである。とりわけ不運な藝術家等――後世の名譽と報酬を豫想せずには、生きて居られなかつたやうな人人は、死後にもその墓石の下で、眼を見ひらき、永遠に生きて居なければならないのである。どんな高僧智識の説教も、はたまたどんな科學や哲學の實證も、かかる妄執の鬼に取り憑かれた、怨靈の人を調伏することはできないだらう。

 神神の生活  人間と同じく、神神にもまた種種の階級がある。そしてその階級の低いものは、無智な貧しい人人と共に、裏街の家の小さな神棚や、農家の暗い祭壇や、僅かばかりの小資本で、ささやかな物を賣つて生計してゐるところの、町町の隅の駄菓子屋、飲食店、待合、藝者屋などの神棚で、いつも侘しげに生活してゐる。日本の都會では、露路の至るところに、小さな侘しげな祠《ほこら》があり、狐や、猿や、大黒天や、鬼子母神や、その他の得體のわからぬ神神が、信心深く祭られてゐる。そして田舍には、尚一層多くの神神が居る。すべての農民等は、邸の中に氏神と地祖神を祭つて居り、田舍の寂しい街道には、行く所に地藏尊と馬頭觀音が安置され、暗い寂しい竹藪の陰や、田の畔《くろ》の畦道《あぜみち》毎には、何人もかつてその名を知らないやうな、得體のわからぬ奇妙な神神が、その存在さへも氣付かれないほど、小さな貧しい祠《ほこら》で祀られてゐる。
 すべて此等の神神を拜むものは、その日の糧に苦しむほど、憐れに貧しい小作人の農夫等である。或はその家族の女共である。都會に於ても同じやうに、かうした神神に供物を捧げる人人は、概ね皆社會の下層階級に屬するところの、無智で貧しい人人である。
「原則として」と小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンが評してゐる。「かうした神神を信ずる人は、概して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人人である。」と。それから尚ヘルンは、かかる神神を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良な人人を誘惑して、キリスト教の僞善と惡魔を教へようとする外人宣教師を、仇敵のやうに痛罵してゐる。だがキリスト教のことは別問題とし、かうした信仰に生きてゐる人人が、概して皆單純で、正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、たしかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧しい無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、その神神の恩寵に要求して居ないのである。田舍の寂しい畔道で、名も知れぬ村社の神の、小さな祠《ほこら》の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の晴着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりの餘裕を惠み給へと祈つてゐるのだ。そして都會の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、彼等の弗箱である客や旦那等が、もつと足繁く通ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神神も祠の中で、可憐な人間共のエゴイズムに、微笑をもらしてゐることだらう。だがその神神もまた、さうした貧しい純良な人と共に、都會の裏街の露路の隅や、田舍の忘られた藪陰などで、侘しくしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]と暮して居るのだ。常に至る所に、人間の生活があるところには、それと同じやうな階級に屬するところの、樣樣の神神の生活がある。そしてその神神の祠《ほこら》は、それに祈願をかける人人の、欲望の大小に比例してゐる。ほんの僅かばかりの、愼《つつ》ましい祈願をかける人人の神神は、同じやうに愼《つつ》ましく、小さな些《ささ》やかな祠《ほこら》で出來てる。人生の薄暮をさ迷ひ歩いて、物靜かな日陰の小路に、さうした侘しい神神の祠を見る時ほど、人間生活のいぢらしさ、悲しさ、果敢なさ、生の苦しさを、侘しく沁沁と思はせることはないのである。

 郵便局  ボードレエルの散文詩「港」に對應する爲、私はこの一篇を作つた。だが私は、その世界的に有名な詩人の傑作詩と、價値を張り合はうといふわけではない。

 海  海の憂鬱さは、無限に單調に繰返される浪の波動の、目的性のない律動運動を見ることにある。おそらくそれは何億萬年の昔から、地球の劫初と共に始まり、不斷に休みなく繰返されて居るのであらう。そして他のあらゆる自然現象と共に、目的性のない週期運動を反覆してゐる。それには始もなく終もなく、何の意味もなく目的もない。それからして我我は、不斷に生れて不斷に死に、何の意味もなく目的もなく、永久に新陳代謝をする有機體の生活を考へるのである。あらゆる地上の生物は、海の律動する浪と同じく、宇宙の方則する因果律によつて、盲目的な意志の衝動で動かされてる。人が自ら欲情すると思ふこと、意志すると思ふことは、主觀の果敢ない幻覺にすぎない。有機體の生命本能によつて、衝動のままに行爲してゐる、細菌や蟲ケラ共の物理學的な生活と、我我人間共の理性的な生活とは、少し離れた距離から見れば、蚯蚓《みみず》と脊椎動物との生態に於ける、僅かばかりの相違にすぎない。すべての生命は、何の目的もなく意味もない、意志の衝動によつて盲目的に行爲してゐる。
 海の印象が、かくの如く我々に教へるのである。それからして人人は、生きることに疲勞を感じ、人生の單調な日課に倦怠して、早く老いたニヒリストになつてしまふ。だがそれにもかかはらず人人は、尚海の向うに、海を越えて、何かの意味、何かの目的が有ることを信じてゐる。そして多くの詩人たちが、彼等のロマンチツクな空想から、無數に美しい海の詩を書き、人生の讚美歌を書いてるのである。

 父  父はその家族や子供等のために、人生の戰鬪場裡に立ち、絶えず戰つてなければならぬ。その困難な戰ひを乘り切る爲には、卑屈も、醜陋も、追從も、奸譎も、時としては不道徳的な破廉恥さへも、あへて爲さなければならないのである。だが子供たちの純潔なロマンチスムは、かかる父の俗惡性を許容しない。彼等は母と結托して、父に反抗の牙をむける。概ねの家庭に於て、父は常に孤獨であり、妻と子供の聯盟帶から、ひとり寂しく仲間はづれに除外される。彼等がもし、家族に於て眞の主權者であり、眞の專制者であればあるほど、益益家族は聯盟を強固にし、益益子供等は父を憎むのである。だが父の孤獨は、實には彼が生殖者でないことに原因してゐる。子供たちは、嚴重の意味に於ては、父の肉體的所有物に屬してゐない。母は子供たちの細胞である。だが父は眞の細胞ではない。言はば彼等は、子供等にとつて「義理の肉親」にすぎないのである。それ故にどんな父も、子供をその母から奪ひ、味方の聯盟陣に入れることはできないのである。
 しかしながら子供等は、その内密の意識の下では、父の悲哀をよく知つてる。そして世間のだれよりもよく、父の實際の敵――戰士であるところの父は、社會の至る所に多くの敵をもつてる。――を認識してゐる。それからして子供等は、彼の不幸な父を苦しめた敵に向つて、いつでも復讐するやうに用意してゐる。(封建時代とはちがつた仕方で、今の資本主義の世の中にも、孝子の仇敵《かたき》討ちがふだんに行はれて居ることを知るべきである。)最も平凡で、意氣地がなく、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]な父でさへも、その子供等にとつて見れば、人生の戰ひに慘敗した、悲壯なナポレオン的英雄なのだ。
 かくの如くして、人類史以來幾千年。父は永遠に悲壯人として生活した。

 敵  敵への怒りは、劣弱者が優勢者に對する、權力感情の發揚である。

 物質の感情  ロボツトの悲哀を思へ。物質であるところのものは、思惟することも、意志することも、生殖することもできないのだ。

 物體  人は悲哀からも、化石することを希望する。

 時計を見る狂人  詩人たちは、絶えず何事かの仕事をしなければならないといふ、心の衝動に驅り立てられてる。そのくせ彼等は、絶えずごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]と怠けて居り、塵の積つた原稿紙を机上にして、一生の大半を無爲に寢そべつてゐるのである。しかもその心の中では、不斷に時計の秒針を眺めながら、できない仕事への焦心を續けてゐる。

 橋  日本の橋は、もつともリリカルの夢を表象してゐる。あはれな、たよりのない、木造の侘しい橋は、現實の娑婆世界から、彌陀の淨土へ行くための、時間の過渡期的經過を表象し、水を距てて空間の上に架けられてる。それ故に河の向うは彼岸(靈界)であり、河のこつちは此岸(現實界)である。

 詩人の死ぬや悲し  現實的な世俗の仕事は、すべて皆「能率」であり、實質の功利的價値によつて計算される。だが文學と藝術とは、本質的に能率の仕事ではない。それは功利上の目的性をもたないところの、眞や美の價値によつて批判される。故に藝術の仕事には、永久に「終局」といふものがないのである。そして詩人は、彼の魂の祕密を書き盡した日に、いよいよ益益寂しくなり、いよいよ深く生の空虚を感ずるのである。著作! 名聲! そんなものの勳章が、彼等にとつて何にならう。

 主よ。休息をあ
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング