落ちてる時、ただ獨り醒めて眠らず、夜《よる》も尚ほ水は流れて行く。寂しい、物音のない、眞暗な世界の中で、山を越え、谷を越え、無限の荒寥とした曠野を越えて、水はその旅を續けて行く。ああ、だれがその悲哀を知るか! 夜ひとり目醒めた人は、眠りのない枕の下に、水の淙淙といふ響を聽く。――我が心いたく疲れたり。主よ休息をあたへ給へ!
父と子供
あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。
「皆が私を苛めるの。白痴《ばか》だつて言ふの。」
子供は實際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。
「泣くな。お前は少しも白痴《ばか》ぢやない。ただ運の惡い、不幸な氣の毒の子供なのだ。」
「不幸つて何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ。」
「過失つて何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かつたの?」
「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」
子供は日曜學校へ行き、讚美歌をおぼえてよく歌つてゐた。
「あら? 車が通るの。お父さん!」
地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が續いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の盡きる向うへ、山脈を越えて行くのであつた。
「待て! 何處《どこ》へ行く。何處《どこ》へ行く。おおい。」
私は聲の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡禮みたいに、峠を越えて行つてしまつた。
「齒が痛い。痛いよう!」
私が夢から目醒めた時に、側《そば》の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き續けて居た。
「齒が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人《つみびと》と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主《ぬし》イエス・キリスト……齒が痛い。痛いよう!」
戸
すべての戸は、二重の空間で仕切られてゐる。
戸の内側には子供が居り、戸の外側には宿命が居る。――これがメーテルリンクによつて取り扱はれた、詩劇タンタジールの死の主題であつた。も一つ付け加へて言ふならば、戸の内側には洋燈が灯り、戸の外側には哄笑がある。風がそれを吹きつける時、ばたばたといふ寂しい音で、哄笑が洋燈を吹き消してしまふのである。
山上の祈
多くの先天的の詩人や藝術家等は、彼等の宿命づけられた仕事に對して、あの悲痛な耶蘇の祈をよく知つてる。「神よ! もし御心に適ふならば、この苦き酒盃を離し給へ。されど爾にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」
戰場での幻想
機關銃よりも悲しげに、繋留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、毒瓦斯よりも沈痛に、曳火彈よりも蒼白く、大砲よりもロマンチツクに、煙幕よりも寂しげに、銃火の白く閃めくやうな詩が書きたい!
蟲
或る詰らない何かの言葉が、時としては毛蟲のやうに、腦裏の中に意地わるくこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。或る日の午後、私は町を歩きながら、ふと「鐵筋コンクリート」といふ言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な哲理の謎が、神祕に隱されてゐるやうに思はれた。それは夢の中の記憶のやうに、意識の背後にかくされて居り、縹渺として捉へがたく、そのくせすぐ目の前にも、捉へることができるやうに思はれた。何かの忘れたことを思ひ出す時、それがつい近くまで來て居ながら、容易に思ひ出せない時のあの焦燥。多くの人人が、たれも經驗するところの、あの苛苛した執念の焦燥が、その時以來憑きまとつて、絶えず私を苦しくした。家に居る時も、外に居る時も、不斷に私はそれを考へ、この詰らない、解りきつた言葉の背後にひそんでゐる、或る神祕なイメーヂの謎を摸索して居た。その憑き物のやうな言葉は、いつも私の耳元で囁いて居た。惡いことにはまた、それには強い韻律的の調子があり、一度おぼえた詩語のやうに、意地わるく忘れることができないのだ。「テツ、キン、コン」と、それは三シラブルの押韻をし、最後に長く「クリート」と曳くのであつた。その神祕的な意味を解かうとして、私は偏執狂者のやうになつてしまつた。明らかにそれは、一つの強迫觀念にちがひなかつた。私は神經衰弱症にかかつて居たのだ。
或る日、電車の中で、それを考へつめてる時、ふと隣席の人の會話を聞いた。
「そりや君。駄目だよ。木造ではね。」
「やつぱり鐵筋コンクリートかな。」
二人づれの洋服紳士は、たしかに何所かの技師であり、建築のことを話して居たのだ。だが私には、その他の會話は聞えなかつた。ただその單語だけが耳に入つた。「鐵筋コンクリート!」
私は跳びあがるやうなシヨツクを感じた。さうだ。この人たちに聞いてやれ。彼等は何でも知つてるのだ。機會を逸するな。大膽にやれ。と自分の心をはげましながら
「その……ちよいと……失禮ですが……。」
と私は思ひ切つて話しかけた。
「その……鐵筋コンクリート……ですな。エエ……それはですな。それはつまり、どういふわけですかな。エエそのつまり言葉の意味……といふのはその、つまり形而上の意味……僕はその、哲學のことを言つてるのですが……。」
私は妙に舌がどもつて、自分の意志を表現することが不可能だつた。自分自身には解つて居ながら、人に説明することができないのだつた。隣席の紳士は、吃驚したやうな表情をして、私の顏を正面から見つめて居た。私が何事をしやべつて居るのか、意味が全で解らなかつたのである。それから隣の連を顧み、氣味惡さうに目を見合せ、急にすつかり默つてしまつた。私はテレかくしにニヤニヤ笑つた。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げるやうにして降りて行つた。
到頭或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。
「鐵筋コンクリートつて、君、何のことだ。」
友は呆氣にとられながら、私の顏をぼんやり見詰めた。私の顏は岩礁のやうに緊張して居た。
「何だい君。」
と、半ば笑ひながら友が答へた。
「そりや君。中の骨組を鐵筋にして、コンクリート建てにした家のことぢやないか。それが何うしたつてんだ。一體。」
「ちがふ。僕はそれを聞いてるのぢやないんだ。」
と、不平を色に現はして私が言つた。
「それの意味なんだ。僕の聞くのはね。つまり、その……。その言葉の意味……表象……イメーヂ……。つまりその、言語のメタフイヂツクな暗號。寓意。その祕密。……解るね。つまりその、隱されたパズル。本當の意味なのだ。本當の意味なのだ。」
この本當の意味と言ふ語に、私は特に力を入れて、幾度も幾度も繰返した。
友はすつかり呆氣に取られて、放心者のやうに口を開きながら、私の顏ばかり視つめて居た。私はまた繰返して、幾度もしつツこく質問した。だが友は何事も答へなかつた。そして故意に話題を轉じ、笑談に紛らさうと努め出した。私はムキになつて腹が立つた。人がこれほど眞面目になつて、熱心に聞いてる重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知つてるにちがひないのだ。ちやんとその祕密を知つてゐながら、私に教へまいとして、わざと薄とぼけて居るにちがひないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか電車の中で逢つた男も、私の周圍に居る人たちも、だれも皆知つてるのだ。知つて私に意地わるく教へないのだ。
「ざまあ見やがれ。此奴等!」
私は心の中で友を罵り、それから私の知つてる範圍の、あらゆる人人に對して敵愾した。何故に人人が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可解でもあるし、口惜しくもあつた。
だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、靈感のやうに閃めいた。
「蟲だ!」
私は思はず聲に叫んだ。蟲! 鐵筋コンクリートといふ言葉が、祕密に表象してゐる謎の意味は、實にその單純なイメーヂにすぎなかつたのだ。それが何故に蟲であるかは、此所に説明する必要はない。或る人人にとつて、牡蠣の表象が女の肉體であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのである。私は聲をあげて明るく笑つた。それから兩手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。
虚無の歌
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり。 「氷島」
午後の三時。廣漠とした廣間《ホール》の中で、私はひとり麥酒《ビール》を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さヘもない。煖爐《ストーブ》は明るく燃え、扉《ドア》の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の數數。
ヱビス橋の側《そば》に近く、此所の侘しいビヤホールに來て、私は何を待つてるのだらう? 戀人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を探して、都會の街街を放浪して來た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麥酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。
かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの體熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスヘの切ない祈祷。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶[#「失はれた追憶」に傍点◎]だつた。かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體を強ひるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍《ひきがへる》とが、地下で私を待つてるのだ。
ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀で圍まれた庭の彼方、倉庫の竝ぶ空地の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い聲が、夢のやうに聞えて來る。廣いがらん[#「がらん」に傍点]とした廣間《ホール》の隅で、小鳥が時時囀つて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の數數。
ああ神よ! もう取返す術《すべ》もない。私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞《うつろ》な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒《ビール》を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。
貸家札
熱帶地方の砂漠の中で、一疋の獅子が晝寢をして居た。肢體をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獸の習性として、胃の中の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白晝《まひる》。風もなく音もない。萬象の死に絶えた沈默《しじま》の時。
その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲撃の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空氣が動き、萬象の沈默《しじま》が
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