ろの、無智で貧しい人人である。
「原則として」と小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンが評してゐる。「かうした神神を信ずる人は、概して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人人である。」と。それから尚ヘルンは、かかる神神を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良な人人を誘惑して、キリスト教の僞善と惡魔を教へようとする外人宣教師を、仇敵のやうに痛罵してゐる。だがキリスト教のことは別問題とし、かうした信仰に生きてゐる人人が、概して皆單純で、正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、たしかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧しい無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、その神神の恩寵に要求して居ないのである。田舍の寂しい畔道で、名も知れぬ村社の神の、小さな祠《ほこら》の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の晴着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりの餘裕を惠み給へと祈つてゐるのだ。そして都會の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、彼等の弗箱である客や旦那等が、もつと足繁く通ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神神も祠の中で、可憐な人間共のエゴイズ
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