温覺感點だと言ふ。諸説紛紛。しかしながら、たとへそれが虚妄の幻覺であるとしても、デカルトの思惟したことは誤つてない。なぜなら「我れが有る」といふことほど、主觀的に確かな信念はないからである。だがかかる意識の主體が、肉體の亡びてしまつた死後に於ても、尚且つ「不死の蛸」のやうに、宇宙のどこかで生存するかといふ疑問は、もはや主觀の信念で解答されない。おそらく我々は、少しばかりの骨片と化し、瓦や蟾蜍と一所に、墓場の下に棲むであらう。そこにはもはや何物もない。知覺も、感情も、意志も、悟性も、すべての意識が消滅して、土塊と共に、永遠の無に歸するであらう。ああしかし……にもかかはらず、尚且つ人間の妄執は、その蕭條たる墓石の下で、永遠に生きて居たい[#「生きて居たい」に傍点◎]と思ふのである。とりわけ不運な藝術家等――後世の名譽と報酬を豫想せずには、生きて居られなかつたやうな人人は、死後にもその墓石の下で、眼を見ひらき、永遠に生きて居なければならないのである。どんな高僧智識の説教も、はたまたどんな科學や哲學の實證も、かかる妄執の鬼に取り憑かれた、怨靈の人を調伏することはできないだらう。

 神神の生活
前へ 次へ
全85ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング