ne(螢の光)の旋律が、古き事物や舊知に對する告別の悲しみを奏しないで、逆にその麗らかな船出に於ける、忘却の悦びを奏するのである。
荒寥たる地方での會話 現代の日本は、正に「荒寥たる地方」である。古き傳統の文化は廢つて、新しき事物はまだ興らない。我等の時代の日本人は、見る物もなく、聞く物もなく、色もなく匂ひもなく、趣味もなく風情もないところの、滿目蕭條たる文化の廢跡に坐してゐるのである。だがしかし、我等の時代のインテリゼンスは、その蕭條たる廢跡の中に、過渡期のユニイクな文化を眺め、津津として盡きない興味をおぼえるのである。洋服を着て疊に坐り、アパートに住んで味噌汁を啜る僕等の姿は、明治初年の畫家が描いた文明開化の圖と同じく、後世の人人に永くエキゾチツクの奇觀をあたへ、清趣深く珍重されるにちがひないのだ。
寂寥の川邊 支那の太公望の故事による。
地球を跳躍して 詩人は常に無能者ではない。だが彼等の悲しみは、現實世界の俗務の中に、興味の對象を見出すことが出來ないのである。それ故に主觀者としての彼等は、常に心ひそかに思ひ驕り、自己の大いに爲すある有能を信じてゐる。だが彼等は
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