如く浮んでゐるのは、寂しくもまた悲しい限りの思ひであつた。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇降する人の足音が、周圍の壁に反響して、遠雷を聽くやうに出來てるので、あたかも畫面の中の大砲が、遠くで鳴つてるやうに聽えるのである。
だがパノラマ館に入つた人が、何人も決して忘られないのは、油繪具で描いた空の青色である。それが現實の世界に穹窿してゐる、現實の青空であることを、初めに人人が錯覺することから、その油繪具のワニスの匂ひと、非現實的に美しい青色とが、この世の外の海市のやうに、阿片の夢に見る空のやうに、妖しい夢魔の幻覺を呼び起すのである。
AULD LANG SYNE! 人は新しく生きるために、絶えず告別せねばならない。すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。
告別することの悦びは、過去を忘却することの悦びである。「永久に忘れないで」と、波止場に見送る人人は言ふ。「永久に忘れはしない」と、甲板《デツキ》に見送られる人人が言ふ。だが兩方とも、意識の潛在する心の影では、忘却されることの悦びを知つてゐるのだ。それ故にこそ、あの Auld lang sy
前へ
次へ
全85ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング