の缺陷による、さまざまの不幸な環境から。
 けれども朝の日がさし、新しい風の吹いてくる時、ふたたび魚はその意志を囘復する。彼等は勇ましくなるであらう。ただ人間の非力でなく、自然の氣まぐれな氣流ばかりが、我我の自由意志に反對しつつ、あへて[#「あへて」に傍点◎]子供等の運命を占筮する。


 記憶を捨てる

 森からかへるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎつた記憶。みじめな、泥水の中に腐つた記憶。さびしい雨景の道にふるへる私の帽子。背後に捨てて行く。


 情緒よ! 君は歸らざるか

 書生は町に行き、工場の下を通り、機關車の鳴る響を聽いた。火夫の走り、車輪の※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、289−1]り、群鴉の喧號する巷の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、さうして港の倉庫の方へ、税關の門をくぐつて行つた。
 十月下旬。書生は飯を食はうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音樂の忍び居り、蟋蟀のやうに鳴くのを聽いた。
 ――情緒よ、君は歸らざるか。


 港の雜貨店で

 この鋏の槓力でも、女の錆びついた銅牌《メダル》が切れないのか。水夫よ! 汝の隱衣《かくし》の錢をかぞへて、無用の情熱を捨ててしまへ!


 死なない蛸

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覺した時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに來た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水《しほみづ》と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに[#「そこに」に傍点◎]生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。


 鏡

 鏡のうしろへ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、292−2]つてみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん!


 狐

 見よ! 彼は風のやうに來る。その額は憂鬱に青ざめてゐる。耳はするどく切つ立ち、まなじりは怒に裂けてゐる。
 君よ! 狡智[#「狡智」に傍点◎]のかくの如き美しき表情をどこに見たか。


 吹雪の中で

 單に孤獨であるばかりでない。敵を以て充たされてゐる!


 銃器店の前で

 明るい硝子戸の店の中で、一つの磨かれた銃器さへも、火藥を裝填してないのである。――何たる虚妄ぞ。懶爾《らんじ》として笑へ!


 虚數の虎

 博徒等集まり、投げつけられたる生涯の機因《チヤンス》の上で、虚數の情熱を賭け合つてゐる。みな兇暴のつら魂《だましひ》。仁義《じんぎ》を構へ、虎のやうな空洞に居る。


 自然の中で

 荒寥とした山の中腹で、壁のやうに沈默してゐる、一の巨大なる耳を見た。


 觸手ある空間

 宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍從しながら、甍《いらか》に於て怒り立つてゐる。


 大佛

 その内部に構造の支柱を持ち、暗い梯子と經文を藏する佛陀よ! 海よりも遠く、人畜の住む世界を越えて、指のやうに尨大なれ!


 家

 人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。


 黒い洋傘

 憂鬱の長い柄から、雨がしとしとと滴《しづく》をしてゐる。眞黒の大きな洋傘!


 國境にて

 その背後《うしろ》に煤煙と傷心を曳かないところの、どんな長列の汽車も進行しない!


 恐ろしき人形芝居

 理髮店の青い窓から、葱のやうに突き出す棍棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、夢中になぐられ、なぐられて居る。


 齒をもてる意志

 意志! そは夕暮の海よりして
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