、鱶の如くに泳ぎ來り、齒を以て肉に噛みつけり。
墓
これは墓である。蕭條たる風雨の中で、かなしく默しながら、孤獨に、永遠の土塊が存在してゐる。
何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅かばかりの物質――人骨や、齒や、瓦や――が、蟾蜍《ひきがへる》と一緒に同棲して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名譽も。またその名譽について感じ得るであらう存在もない。
尚ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も殘りはしない。我我の肉體は解體して、他の物質に變つて行く。思想も、神經も、感情も、そしてこの自我の意識する本體すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我我は死後を考へ、いつも風のやうに哄笑するのみ!
しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我は不運な藝術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤獨に耐へて、ただ後世にまで殘さるべき、死後の名譽を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花輪を捧げ、數萬の人が自分の名作を讚へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名譽を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後にも尚ほ且つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならない[#「生きて居なければならない」に傍点◎]のだ。
蕭條たる風雨の中で、さびしく永遠に默しながら、無意味の土塊が實在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我我はそれを知らない。これは墓である! 墓である!
神神の生活
ひどく窮乏に惱まされ、乞食のやうな生涯を終つた男が、熱心に或る神を信仰し、最後迄も疑はず、その全能を信じて居た。
「あなたもまた、この神樣を信仰なさい。疑ひもなく、屹度、御利益がありますから。」臨終の床の中でも、彼は逢ふ人毎にそれを説いた。だが人人は可笑しく思ひ、彼の言ふことを信じなかつた。なぜと言つて、神がもし本當の全能なら、この不幸な貧しい男を、生涯の乞食にはしなかつたらう。信仰の御利益は、もつと早く、すくなくとも彼が死なない前に、多少の安樂な生活を惠んだらう。
「乞食もまた神の恩惠を信ずるか!」
さう言つて人人は哄笑した。しかしその貧しい男は、手を振つて答辯し、神のあらたかな[#「あらたかな」に傍点]御利益につき、熱心になつて實證した。例へば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天が雨を降らさぬやうに、時時その神に向つて祈願した。或はまた金十錢の飯を食ふべく、それだけの收入が有り得るやうに、彼の善き神に向つて哀願した。そしてまた、時に合宿所の割寢床で、彼が温き夜具の方へ、順番を好都合にしてもらへることを、密かにその神へ歎願した。そしてこれ等の祈願は、概ねの場合に於て、神の聽き入れるところとなつた。いつでも彼は、それの信仰のために惠まれて居り、神の御利益から幸福だつた。もちろんその貧しい男は、より以上に「全能なもの」を考へ得ず、想像することもなかつた。
人生について知られるのは、全能の神が一人でなく、到るところにあることである。それらの多くの神神たちは、野道の寂しい辻のほとりや、田舍の小さな森の影や、景色の荒寥とした山の上や、或は裏街の入り込んでゐる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間共の侘しげな世界の中で、しづかに情趣深く生活して居る。
郵便局
郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人人は窓口に群がつてゐる。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくつて押し合つてゐる。或る人人は爲替を組み入れ、或る人人は遠國への、かなしい電報を打たうとしてゐる。
いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに來て手紙を書き、そこに來て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舍の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤獨に暮らしてゐる娘の許へ、秋の袷や襦袢やを、小包で送つたといふ通知である。
郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて亂れてゐる。何をこの人生から、
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