たへ給へ!  詩人として生れつき、文學をする人の不幸は、心に休息がないといふことである。彼等はいつも、人生の眞實を追求して、孤獨な寂しい曠野を彷徨してゐる。家に居る時も、外に居る時も、讀書してる時も、寢そべつてる時も、仕事してる時も、怠けてゐる時も、起きてる時も、床にゐる時も、夜も晝も休みなく、絶えず何事かを考へ、不斷に感じ、思ひ、惱み、心を使ひ續けてゐるのである。眠れない夜の續く枕許に、休息のない水の流れの、夜《よる》更けて淙淙といふ音をきく時、いかに多くの詩人たちが、受難者として生れたところの、自己の宿命を嘆くであらう。「主よ。もし御心に適ふならば、この苦き酒盃《さかづき》を離し給へ。されど爾《なんぢ》にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」といふ耶蘇の祈りの深い意味を、彼等はだれよりもよく知つてるのである。

 父と子供  詩集「氷島」の中で歌つた私の數數の抒情詩は、「見よ! 人生は過失なり」といふ詩語に盡きる。此所にはそれを散文で書いた。――主はその一人兒を愛するほどに、罪びと我れをも救ひ給へ!

 蟲  散文詩といふよりは、むしろコントといふ如き文學種目に入るものだらう。此所で自分が書いてることは、或る神經衰弱症にかかつた詩人の、變態心理の描寫である。「鐵筋コンクリート」と「蟲」との間には、勿論何の論理的關係もなく、何の思想的な寓意もない。これが雜誌に發表された時、二三の熱心の讀者から、その點での質問を受けて返事に窮した。しかし精神分析學的に探究したら、勿論この兩語の間に、何かの隱れた心理的關聯があるにちがひない。なぜならその詩人といふものは、著者の私のことであり、實際に主觀上で、私がかつて經驗したことを書いたのだから。
 しかし多くの詩人たちは、自己の詩作の經驗上で、だれも皆こんなことは知つてる筈だ。近代の詩人たちは、言葉を意味によつて聯想しないで、イメーヂによつて飛躍させる。たとへば或る詩人は、「馬」といふ言葉から「港」をイメーヂし、「a」といふ言葉から「蠅」を表象し、「象」といふ言葉から「墓地」を表現させてる。かうしたイメーヂの聯絡は、極めて飛躍的であり、突拍子もない荒唐のものに思はれるだらうが、作者の主觀的の心理の中では、その二つの言葉をシノニムに結ぶところの、歴とした表象範則ができてるのである。しかもその範則は、作者自身にも知られてない。なぜ
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