ならそれは、夢の現象と同じく、作者の潛在意識にひそむ經驗の再現であり、精神分析學だけが、科學的方法によつて抽出し得るものであるから。
それ故詩人たちは、本來皆、自ら意識せざる精神分析學者なのである。しかしそれを特に意識して、自家の藝術や詩の特色としたものが、西洋の所謂シユル・レアリズム(超現實派)である。シユル・レアリズムの詩人や畫家たちは、意識の表皮に浮んだ言葉や心像やを、意識の潛在下にある經驗と結びつけることによつて、一つの藝術的イメーヂを構成することに苦心してゐるが、單に彼等ばかりでなく、一般に近代の詩人たちは、だれも皆かうした「言葉の迷ひ兒さがし」に苦勞して居り、その點での經驗を充分に持つてる筈である。そこで私のこのコントは、かうした詩人たちの創作に於ける苦心を、心理學的に解剖したものとも見られるだらう。
貸家札 これも前と同じく、夢の潛在意識を書いたシユル・レアリズム風の作品である。原作では、これに「映畫のシナリオとして」といふ小書をつけておいた。
虚無の歌 ヱビス橋のビアホールは、省線の惠比壽驛に近く、工場區街にあり、常客の大部分が職工や勞働者であるため、晝間はいつも閑寂にがらん[#「がらん」に傍点]としてゐるのである。一頃《ひところ》私はその近所に居たので、毎日のやうに通つて麥酒を飲んだり、人氣のない廣間の中で、ぼんやり物を考へながら、秋の日の午後を暮してゐた。
此等の詩篇で、私は相當に言葉の音律節奏に留意した。ボードレエルの言ふ「韻律を蹈まないで、しかも音樂的節奏を感銘づける文學」に、多少或る程度迄近づけようと努力した。しかし抒情詩とちがつて、理智的な思想要素が多い散文詩では、本來さうした哲學性に缺乏してゐる日本語が、殆んど本質的に不適當である。日本語で少しく思想的な詩を書かうとすると、必然的に無味乾燥な觀念論文になつてしまふ。でなければ全く音樂節奏のない印象散文になつてしまふ。日本語を用ゐる限り、ボードレエルの藝術的散文詩は眞似ができない。しかし私は特異な文體を工夫して、不滿足ながら多少の韻文性――すくなくとも普通の散文に比して、幾分かの音樂的抑揚のある文章――を書いて見た。それがこの書中の「虚無の歌」「臥床の中で」「海」「墓」「郵便局」「パノラマ館にて」等の數篇である。嚴重に言へば、此等の若干の物だけが「散文詩」であり、他は未だ「
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