とはできないのである。
 しかしながら子供等は、その内密の意識の下では、父の悲哀をよく知つてる。そして世間のだれよりもよく、父の實際の敵――戰士であるところの父は、社會の至る所に多くの敵をもつてる。――を認識してゐる。それからして子供等は、彼の不幸な父を苦しめた敵に向つて、いつでも復讐するやうに用意してゐる。(封建時代とはちがつた仕方で、今の資本主義の世の中にも、孝子の仇敵《かたき》討ちがふだんに行はれて居ることを知るべきである。)最も平凡で、意氣地がなく、ぐうたら[#「ぐうたら」に傍点]な父でさへも、その子供等にとつて見れば、人生の戰ひに慘敗した、悲壯なナポレオン的英雄なのだ。
 かくの如くして、人類史以來幾千年。父は永遠に悲壯人として生活した。

 敵  敵への怒りは、劣弱者が優勢者に對する、權力感情の發揚である。

 物質の感情  ロボツトの悲哀を思へ。物質であるところのものは、思惟することも、意志することも、生殖することもできないのだ。

 物體  人は悲哀からも、化石することを希望する。

 時計を見る狂人  詩人たちは、絶えず何事かの仕事をしなければならないといふ、心の衝動に驅り立てられてる。そのくせ彼等は、絶えずごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]と怠けて居り、塵の積つた原稿紙を机上にして、一生の大半を無爲に寢そべつてゐるのである。しかもその心の中では、不斷に時計の秒針を眺めながら、できない仕事への焦心を續けてゐる。

 橋  日本の橋は、もつともリリカルの夢を表象してゐる。あはれな、たよりのない、木造の侘しい橋は、現實の娑婆世界から、彌陀の淨土へ行くための、時間の過渡期的經過を表象し、水を距てて空間の上に架けられてる。それ故に河の向うは彼岸(靈界)であり、河のこつちは此岸(現實界)である。

 詩人の死ぬや悲し  現實的な世俗の仕事は、すべて皆「能率」であり、實質の功利的價値によつて計算される。だが文學と藝術とは、本質的に能率の仕事ではない。それは功利上の目的性をもたないところの、眞や美の價値によつて批判される。故に藝術の仕事には、永久に「終局」といふものがないのである。そして詩人は、彼の魂の祕密を書き盡した日に、いよいよ益益寂しくなり、いよいよ深く生の空虚を感ずるのである。著作! 名聲! そんなものの勳章が、彼等にとつて何にならう。

 主よ。休息をあ
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