に始まり、不斷に休みなく繰返されて居るのであらう。そして他のあらゆる自然現象と共に、目的性のない週期運動を反覆してゐる。それには始もなく終もなく、何の意味もなく目的もない。それからして我我は、不斷に生れて不斷に死に、何の意味もなく目的もなく、永久に新陳代謝をする有機體の生活を考へるのである。あらゆる地上の生物は、海の律動する浪と同じく、宇宙の方則する因果律によつて、盲目的な意志の衝動で動かされてる。人が自ら欲情すると思ふこと、意志すると思ふことは、主觀の果敢ない幻覺にすぎない。有機體の生命本能によつて、衝動のままに行爲してゐる、細菌や蟲ケラ共の物理學的な生活と、我我人間共の理性的な生活とは、少し離れた距離から見れば、蚯蚓《みみず》と脊椎動物との生態に於ける、僅かばかりの相違にすぎない。すべての生命は、何の目的もなく意味もない、意志の衝動によつて盲目的に行爲してゐる。
 海の印象が、かくの如く我々に教へるのである。それからして人人は、生きることに疲勞を感じ、人生の單調な日課に倦怠して、早く老いたニヒリストになつてしまふ。だがそれにもかかはらず人人は、尚海の向うに、海を越えて、何かの意味、何かの目的が有ることを信じてゐる。そして多くの詩人たちが、彼等のロマンチツクな空想から、無數に美しい海の詩を書き、人生の讚美歌を書いてるのである。

 父  父はその家族や子供等のために、人生の戰鬪場裡に立ち、絶えず戰つてなければならぬ。その困難な戰ひを乘り切る爲には、卑屈も、醜陋も、追從も、奸譎も、時としては不道徳的な破廉恥さへも、あへて爲さなければならないのである。だが子供たちの純潔なロマンチスムは、かかる父の俗惡性を許容しない。彼等は母と結托して、父に反抗の牙をむける。概ねの家庭に於て、父は常に孤獨であり、妻と子供の聯盟帶から、ひとり寂しく仲間はづれに除外される。彼等がもし、家族に於て眞の主權者であり、眞の專制者であればあるほど、益益家族は聯盟を強固にし、益益子供等は父を憎むのである。だが父の孤獨は、實には彼が生殖者でないことに原因してゐる。子供たちは、嚴重の意味に於ては、父の肉體的所有物に屬してゐない。母は子供たちの細胞である。だが父は眞の細胞ではない。言はば彼等は、子供等にとつて「義理の肉親」にすぎないのである。それ故にどんな父も、子供をその母から奪ひ、味方の聯盟陣に入れるこ
前へ 次へ
全43ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング