ろの、無智で貧しい人人である。
「原則として」と小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンが評してゐる。「かうした神神を信ずる人は、概して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人人である。」と。それから尚ヘルンは、かかる神神を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良な人人を誘惑して、キリスト教の僞善と惡魔を教へようとする外人宣教師を、仇敵のやうに痛罵してゐる。だがキリスト教のことは別問題とし、かうした信仰に生きてゐる人人が、概して皆單純で、正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、たしかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧しい無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、その神神の恩寵に要求して居ないのである。田舍の寂しい畔道で、名も知れぬ村社の神の、小さな祠《ほこら》の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の晴着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりの餘裕を惠み給へと祈つてゐるのだ。そして都會の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、彼等の弗箱である客や旦那等が、もつと足繁く通ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神神も祠の中で、可憐な人間共のエゴイズムに、微笑をもらしてゐることだらう。だがその神神もまた、さうした貧しい純良な人と共に、都會の裏街の露路の隅や、田舍の忘られた藪陰などで、侘しくしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]と暮して居るのだ。常に至る所に、人間の生活があるところには、それと同じやうな階級に屬するところの、樣樣の神神の生活がある。そしてその神神の祠《ほこら》は、それに祈願をかける人人の、欲望の大小に比例してゐる。ほんの僅かばかりの、愼《つつ》ましい祈願をかける人人の神神は、同じやうに愼《つつ》ましく、小さな些《ささ》やかな祠《ほこら》で出來てる。人生の薄暮をさ迷ひ歩いて、物靜かな日陰の小路に、さうした侘しい神神の祠を見る時ほど、人間生活のいぢらしさ、悲しさ、果敢なさ、生の苦しさを、侘しく沁沁と思はせることはないのである。

 郵便局  ボードレエルの散文詩「港」に對應する爲、私はこの一篇を作つた。だが私は、その世界的に有名な詩人の傑作詩と、價値を張り合はうといふわけではない。

 海  海の憂鬱さは、無限に單調に繰返される浪の波動の、目的性のない律動運動を見ることにある。おそらくそれは何億萬年の昔から、地球の劫初と共
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