温覺感點だと言ふ。諸説紛紛。しかしながら、たとへそれが虚妄の幻覺であるとしても、デカルトの思惟したことは誤つてない。なぜなら「我れが有る」といふことほど、主觀的に確かな信念はないからである。だがかかる意識の主體が、肉體の亡びてしまつた死後に於ても、尚且つ「不死の蛸」のやうに、宇宙のどこかで生存するかといふ疑問は、もはや主觀の信念で解答されない。おそらく我々は、少しばかりの骨片と化し、瓦や蟾蜍と一所に、墓場の下に棲むであらう。そこにはもはや何物もない。知覺も、感情も、意志も、悟性も、すべての意識が消滅して、土塊と共に、永遠の無に歸するであらう。ああしかし……にもかかはらず、尚且つ人間の妄執は、その蕭條たる墓石の下で、永遠に生きて居たい[#「生きて居たい」に傍点◎]と思ふのである。とりわけ不運な藝術家等――後世の名譽と報酬を豫想せずには、生きて居られなかつたやうな人人は、死後にもその墓石の下で、眼を見ひらき、永遠に生きて居なければならないのである。どんな高僧智識の説教も、はたまたどんな科學や哲學の實證も、かかる妄執の鬼に取り憑かれた、怨靈の人を調伏することはできないだらう。
神神の生活 人間と同じく、神神にもまた種種の階級がある。そしてその階級の低いものは、無智な貧しい人人と共に、裏街の家の小さな神棚や、農家の暗い祭壇や、僅かばかりの小資本で、ささやかな物を賣つて生計してゐるところの、町町の隅の駄菓子屋、飲食店、待合、藝者屋などの神棚で、いつも侘しげに生活してゐる。日本の都會では、露路の至るところに、小さな侘しげな祠《ほこら》があり、狐や、猿や、大黒天や、鬼子母神や、その他の得體のわからぬ神神が、信心深く祭られてゐる。そして田舍には、尚一層多くの神神が居る。すべての農民等は、邸の中に氏神と地祖神を祭つて居り、田舍の寂しい街道には、行く所に地藏尊と馬頭觀音が安置され、暗い寂しい竹藪の陰や、田の畔《くろ》の畦道《あぜみち》毎には、何人もかつてその名を知らないやうな、得體のわからぬ奇妙な神神が、その存在さへも氣付かれないほど、小さな貧しい祠《ほこら》で祀られてゐる。
すべて此等の神神を拜むものは、その日の糧に苦しむほど、憐れに貧しい小作人の農夫等である。或はその家族の女共である。都會に於ても同じやうに、かうした神神に供物を捧げる人人は、概ね皆社會の下層階級に屬するとこ
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